戦争計画部長と真珠湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 14:02 UTC 版)
「リッチモンド・K・ターナー」の記事における「戦争計画部長と真珠湾」の解説
「真珠湾攻撃」および「真珠湾攻撃陰謀説」も参照 1940年10月、ターナーは海軍作戦部長ハロルド・スターク大将(アナポリス1903年組)の下で戦争計画部長を務める。1940年2月には少将に進級し、陸海軍合同会議メンバーにも選ばれた。戦争計画部長在職中のターナーは、スタークや作戦部次長ロイヤル・E・インガソル(英語版)少将(アナポリス1905年組)らとともに海軍作戦部を切り盛りしていたが、ターナーは次第に絶大な権力を持ち、上官であるはずのスタークやインガソルをも顎で使うようになり、スタークやインガソルは、ターナーが出した案をそのまま丸呑みにするようになる。そういった最中に真珠湾攻撃が起き、アメリカは大戦に突入していく。 ヘンリー・スティムソン陸軍長官から議会に提出されていたクラウゼン報告など、真珠湾攻撃に関するさまざまな報告を総合すれば、当時ミリタリー・インテリジェンスの海軍部門の筆頭だったセオドア・S・ウィルキンソン大佐(アナポリス1909年組)は、名目上はスタークに報告したことになっていたが、実際には前述のようにターナーが事実上仕切っていたため、スタークへの報告の返答はターナーによって行われていた。これらの報告の中には、パープル暗号などの解析による情報も含まれていたが、ターナーはこれを独断で握りつぶし、増援を派遣しない決定を下した。真珠湾攻撃当時の合衆国艦隊兼太平洋艦隊司令長官だったハズバンド・キンメル大将(アナポリス1904年組)は、「もし情報が届けられていたなら高いレベルの警戒態勢を維持できただろう。」と戦争終結後に回想した。 真珠湾攻撃研究を行っていたメリーランド大学カレッジパーク校の歴史学教授だったゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は、その著作 "Pearl Harbor: The Verdict of History" で、歴史の評価やキンメルの真情を考慮した上で、次のように評した。 ターナーが情報を解析して「ハワイへの日本軍の空襲を少なくとも50パーセントはある」と判断し、キンメルに警告を発することは簡単であった。ターナーは戦争計画部を事実上支配しており、キンメルはその警告を受け止める義務があった。ターナーは警告を通報していたならば、真珠湾攻撃を回避して国家から賞賛されていただろうし、残りの確率で攻撃を受けて、やはり非難を受けていただろう。 ターナーはこの件で、のちに椿事を引き起こす(後述)。 真珠湾攻撃後、ターナーは1942年6月まで合衆国艦隊の参謀副長となった。合衆国艦隊司令長官は、キンメル罷免を受けてアーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)が就任していた。合衆国艦隊参謀副長のターナーは、将来の作戦を見据えてエスピリトゥサントなどへ前進基地を設置することを進言し、これらの基地はのちの作戦で大いに活用されることになる。
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