拡大と統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
詳細は「セレウコス朝とパルティアの戦争」を参照 プラアテス1世はかつてのアレクサンドロスの門(英語版)を超えて位置不明のアパメア・ラギアナ(英語版)市を占領し、パルティアの支配を拡大したと記録されている。だが、本格的にパルティアの勢力が拡大してその領土が広がったのは、彼の弟であり後継者であるミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年頃)の治世中である。カトウジアンは彼をアケメネス朝の創設者キュロス2世(大王、前530年死去)に例えており、日本の研究者山本由美子は「真の意味でのパルティア帝国の建設者であった」と評している。 グレコ・バクトリアで内紛が発生し、ディオドトス2世の王位がエウクラティデス1世(在位:前170年-145年頃)に奪われた後、ミトラダテス1世はバクトリアからタプリナとトラクシアナという二つの州(英語版)を奪取した。その後、ミトラダテス1世の視線は西方に転じた。当時セレウコス朝のアンティオコス4世はユダヤ人の反乱に対応するためにパレスチナに軍を集結させていたが、この間にアルメニア王アルタクシアス1世と、メディア王ティマルコスがセレウコス朝の統制下から離れたため、これらを鎮撫すべく遠征を開始した。アンティオコス4世はアルメニアを抑え、メディアの首都エクバタナ、ペルシスのペルセポリスを経てエリュマイスへ進軍したが、現地人の抵抗によって敗退し、ガバエ(現:イスファハーン)で倒れた。パルティアのミトラダテス1世は、前161年には東側からメディアに侵入し、前155年までにメディア王ティマルコスを倒してメディアを征服した。この勝利に続いて、更に肥沃なメソポタミアを目指し、前141年までにはバビロニアを征服した。彼は前141年にセレウキアでコインを鋳造し、公的な即位式を行っている。その後ミトラダテス1世は東部での問題の対応のためにヒュルカニアへと戻ったが、残された軍隊はエリュマイスとカラケネを征服し、スサ市を占領した。歴史家オロシウスの記録では、ミトラダテス1世の時代にはヒュダスペス川からインダス川の間の一切の民族を支配したとも言う。これは実際にはペルシアのある川からインダス川にいたる、古来争奪されていた地域を漠然と表現したものであると推定されている。 セレウコス朝では前142年に首都アンティオキアで将軍のディオドトス・トリュフォンが反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった。しかし、前140年までにはデメトリオス2世がメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。パルティアは当初不利であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘のロドグネ(英語版)と結婚させた。 ミトラダテス1世の治世の間、ヘカトンピュロスがパルティアの最初の首都として機能していたが、彼はセレウキア、エクバタナ、クテシフォン、新たに建設した都市ミトラダトケルタ(トルクメニスタンのニサ)にも王宮を建設した。ミトラダトケルタにはその後アルサケス朝の王たちの墓が建設された。エクバタナはアルサケス朝の王族たちの主たる夏宮となった。クテシフォンはゴタルゼス1世(ゴータルズ1世、在位:前90年-前80年頃)の治世まで公式な首都とはならなかったと思われるが、歴史学者のマリア・ブロシウス(Maria Brosius)によればこの地は戴冠式を執り行う場所となり、アルサケス朝を代表する都市であった。 歴史学者のA.D.H.ビヴァール(英語版)は、このミトラダテス1世の治世最後の年である紀元前138年が「パルティアの歴史の中で正確に確定できる最初の年」であるとしており、デベボイスもまた前137年/前138年のミトラダテス1世の死が「貨幣と楔形文字の記録を元に確定されたパルティアの最も古い年代である。」としている。 ミトラダテス1世の跡を継いだのは幼い王子プラアテス2世(フラハート2世、在位:138年-前129年)であった。一方、セレウコス朝ではデメトリオス2世の兄弟のアンティオコス7世(在位:前138年-前129年)が王位を引き継いだと想定される。彼はデメトリオス2世の妻、クレオパトラ・テアと結婚した。ディオドトス・トリュフォンの反乱を完全に鎮圧した後、前130年にアンティオコス7世はパルティアの支配下にあるメソポタミアを奪回するための遠征を開始した。パルティアの将軍イダテスは大ザブ川沿いで撃破され、その後バビロニアでも反乱が発生して将軍エニウスがセレウキアの住民によって殺害された。アンティオコス7世はバビロニアを征服し、スサも占領してその地でコインを発行した。その後、彼の軍隊がメディアへ進軍すると、パルティアは和平を求めた。アンティオコス7世が提示した和平の条件は、アルサケス朝がパルティア地方を除く全ての土地を譲渡し、莫大な賠償金を払い、デメトリオス2世を虜囚から解放するという過酷なものであった。パルティアはデメトリオス2世を解放しセレウコス朝の本国シリアへ送ったが、他の要求は拒否した。だがアンティオコス7世と彼の軍勢は、メディアで越冬する間に物資を使い果たし、住民から厳しい徴発を行ったために、前129年の春までにメディア人が公然と反逆し始めた。アンティオコス7世がこの反乱の鎮圧を試みている間にパルティア軍の主力がメディアに押し寄せ、彼を殺害した。パルティアはアンティオコス7世の死体を銀の棺に入れてシリアに送り返し、彼の幼い息子のセレウコスを捕らえた。そしてアンティオコス7世に同行していたデメトリオス2世の娘もこの時捕らえ、彼女はプラアテス2世の後宮に入った。 こうしてパルティアは西方における失地を回復したが、別の脅威が東方で生じていた。既に前177年から前176年にかけ、匈奴の遊牧民部族連合が、遊牧民の月氏を、現在の中国西北部の甘粛省にあった彼らの故地から追いやっていた。月氏は西へ逃れバクトリアに移住し、サカ(スキタイ)人の部族を放逐した。サカ人は更に西へと追い立てられ、パルティアの北東国境地帯へ侵入していた。かつて、ミトラダテス1世はこれに対処するため、メソポタミアを征服した後ヒュルカニアへ戻ることを余儀なくされた。 このサカ人は、プラアテス2世の時代にはアンティオコス7世と戦うパルティア軍に傭兵として加わったが、彼らは実際の戦闘には間に合わなかった。このためプラアテス2世は彼らに賃金を支払うことを拒否したが、結果としてサカ人たちは反乱を起こした。プラアテス2世は捕虜にしたセレウコス朝の元兵士たちをこれに当てて鎮圧しようとしたが、彼らは非常に冷遇されており、パルティア人の戦列がぐらついたのを見ると、瞬く間にサカ人の下へと寝返った。この結果、プラアテス2世は彼らによってその軍隊もろとも虐殺された。ローマ人の歴史家、ユスティヌスは彼の叔父で、次の王になったアルタバノス1世(アルタバーン1世、在位:前128年-前124年頃)が、東方の遊牧民との戦いの中で前任者と同様の運命を辿ったことを報告している。それによれば、アルタバノス1世はトカロイ族(吐火羅、月氏と推定される)によって殺害された。なお、ビヴァールはユスティヌスはトカロイ族にサカ人たちを含めていると考えている。 同じ頃、プラアテス2世によってバビロニア総督に任命されていたヒメロスはペルシア湾岸のカラクス・スパシヌ(英語版)に拠点を置くヒスパオシネス統治下のカラケネ王国を征服するように命じられた。しかし、この企ては失敗し、逆にヒスパネシオスが前127年にバビロニアに侵入、セレウキアを占領した。 前124年に新たな王となったミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)は、同名の王ミトラダテス1世と同じく傑出した王として数えられている。彼はヒスパネシオスをバビロニアから排除し、パルティアの宗主権下に置いた。また、シースターンでサカ人によって失われた領土を回復した。 ミトラダテス2世は前113年にドゥラ・エウロポスを占領してパルティアの支配を更に西方まで拡大した後、アルメニア王国を攻撃した。彼はアルメニア王アルタヴァスデス1世(英語版)を撃破して廃位し、その息子ティグラネスを人質とした。このティグラネスは後のアルメニア王ティグラネス2世(大王、在位:前95年頃-前55年)である。
※この「拡大と統合」の解説は、「パルティア」の解説の一部です。
「拡大と統合」を含む「パルティア」の記事については、「パルティア」の概要を参照ください。
- 拡大と統合のページへのリンク