政変を企てる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 15:05 UTC 版)
相次ぐ反乱により、百姓は飢饉に喘ぎ、盗賊が横行するようになったが、周玘は甚だ威惠をもって統治に当たったので、百姓から敬愛された。これにより1年の間、領内は安寧となった。司馬睿は周玘が幾度も義軍を興して、勲功と忠誠が飛びぬけていた事から、呉興郡の陽羡・義郷・丹陽郡の永世を分割して義興郡を設置し、その功績を顕彰した。 永嘉の乱以降、北方士族は相次いで江南へ到来し、司馬睿の幕府の主要な地位を占め、江南の士族は多くが排斥された。周玘の宗族は強盛であり、人心も帰していたので、司馬睿は次第に疑い憚るようになった。その為、周玘は久しく重んじられず、内心これに不満を抱いた。また、幕僚である刁協からも軽んじられ、さらに不満は募った。当時、鎮東将軍祭酒王恢もまた同様に不満を抱いていたので、共に密かに政変を企てると、北方士族を排斥して南士と共に帝を奉じようと考えた。 313年4月、王恢は密かに流民の統領である夏鉄らと連携すると、彼らに淮・泗の地において挙兵するよう命じ、自らは周玘と共に三呉の地(呉郡・呉興郡・会稽郡)においてこれに応じる事となった。夏鉄は数百人の衆を纏め上げたが、臨淮郡太守蔡豹はこれを察知し、挙兵前に夏鉄を処断した。王恢は夏鉄の死を聞いて密防が漏れるのを恐れ、周玘の下へ逃走してきた。だが、周玘はこれを殺害すると、豕牢(厠)に埋葬した。
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