政治信念
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松本サリン事件の被害者でありながら加害者扱いされた河野義行に対して「人間として政治家として心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪したことや、重度身体障害者療養施設や重度身体障害者授産施設を自ら設立・運営していることなどから野中の姿勢は、魚住昭や後述の後藤謙次などから「弱者への眼差し」と呼ばれる。松本サリン事件で重度の後遺症を持つことになった河野の妻を自ら運営する施設に受け入れる意思があることも話した。しかし、河野は仕事の関係で長野県から移動できないため、野中の施設の管理者が長野県内の施設を紹介した。このことに感謝した河野は、野中へ長野県産のリンゴを贈り続けていた。 佐高信は、魚住の著書『野中広務 差別と権力』の解説で、「ハンセン病訴訟の元患者や弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国の責任を事実上認めた野中に、彼らは『痛みのなかに身体をおけるひと』と賛辞を惜しまないという」と書いた。事実、野中が政界から引退を表明した直後、ハンセン病訴訟全国原告団協議の会長、会長代理、副会長及び事務局長、全国ハンセン病療養所入所者協議会長の連名で「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が野中に届けられた。 野中の父は保護司を務め、戦災孤児の収容施設「園部寮」の運営に深く関わっていた。後藤は、野中の自著『私は闘う』の解説で、社会的弱者に注がれる野中の視線は暖かく、そして「弱者に対する眼差し」は決して同情からではなく、生まれ育った環境の中で辛さ苦しみを共有する中で芽生え体に染み付いたものと書いている。 野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に自らが被差別部落出身であることを話したことがあったが、地方政治家時代から部落解放同盟などの同和団体とは一線を画しており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。また、京都府副知事時代には小森龍邦をはじめとした部落解放同盟幹部のいる席で「部落問題をダシにして利権あさりをしたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続ける限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります」と発言したこともある。 また、選択的夫婦別姓制度推進にも、2001年に党三役に申し入れを行うなど積極的であった。 時事放談の司会の御厨貴は当番組に野中が出演した際小泉純一郎の話題になった瞬間興奮して余りに過激な批判を口にしてディレクターが「そこまでは」宥めると「何が悪いんや」とさらに怒り大変だったいう。
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政治信念
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「フランソワ・アスリノ」の記事における「政治信念」の解説
アスリノはフランスの立法権と行政権が欧州委員会に、司法権が欧州司法裁判所に、通貨主権が欧州中央銀行に、外交・軍事が北大西洋条約機構に移譲されている現状を打破するため、欧州連合、ユーロ、NATOから出る必要があると主張する。さらにTF1、フランス郵政公社、エンジー、高速道路、水道等の生活インフラの国有化を提言している。通貨政策は欧州中央銀行に15年間勤めていたヴァンサン・ブルソー(Vincent Brousseau)が担当している。
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