数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年
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1957年(昭和32年)の第5回大会では「数学教育の近代化」が議論され、小学校での「比例」、中学校での「論証」、高校での「微積分」が論点となった。小学校の比例では「量の指導体系」が作られ、中学校では図形教育の体系作りが行われた。高校の微積分では関数概念が検討された。生活単元学習の衰退と共に、研究会の主体は学者グループから現場の教師に移っていった。 会の設立趣旨にある「現場の教育活動に基礎をおく研究と実践を通じて、正しい数学教育の建設に努力する」という体制が実現した。若い教師が積極的に参加するようになり、全国的なサークル活動が盛んになり、地方ブロックの大会も行われるようになった。また1958年(昭和33年)には小学校の計算入門のための計算体系の理論「水道方式」が提唱され、文部省とそれを支持する学者と激しく対立するようになった(「水道方式」も参照)。 1958年(昭和33年)の第6回大会以後「量こそが数学の出発点である」として明治以来戦前までの国定教科書の「数え主義」を否定した。その量の概念からタイルを使う位取りのシステムと、筆算による計算システムの理論である水道方式が生まれた。1959年(昭和34年)には、戦前の国定教科書の「暗記主義」を主導してきた人々との対立が激しくなり、協議会の外では元国定教科書編集者の塩野直道と遠山啓が激しい論争を繰り広げた。1962年(昭和37年)に遠山啓と対立していた副委員長の横地清をはじめとする29名が声明を出して数教協を脱退し、数学教育実践研究会(数実研)を作った。
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