文人大名とは? わかりやすく解説

文人大名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 06:23 UTC 版)

佐竹義敦」の記事における「文人大名」の解説

7代藩主佐竹義明長男として誕生。母は5代藩主佐竹義峯の娘・直。幼名秀丸。初名は義直(よしなお)。 宝暦8年1758年5月11日、父・義明の死去により、家督相続した宝暦13年1763年2月15日10代将軍徳川家治御目見する。同年12月9日従四位下侍従、右京大夫叙任される明和2年1765年4月15日初めお国入り許可を得る。この頃久保田藩では飢饉農村荒廃秋田騒動などにより藩政混乱していたが、義敦はそんな現実から逃避したかったのか、絵を書くことに安らぎ求めた。[要出典]親交のあった土佐藩主・山内豊雍薩摩藩主・島津重豪合作絵画残っている。 当時絵描きとしては最大正統派呼ばれた狩野派から絵を学んだ狩野派面々も、最初大名ちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は本気であった。そして藩士小田野直武からも教え受けて日本画西洋画組み合わせた一代的な画法作り出した。直武は、西洋画対す趣味持っており、平賀源内からもその作品見て秋田片田舎素晴らし名手がいるものだ」と賞賛された。

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文人大名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 02:01 UTC 版)

増山正賢」の記事における「文人大名」の解説

風雅愛でた文人大名としては、雪斎の号でよく知られる。書は趙陶斎から唐様学び、画は木村蒹葭堂を師とした。南蘋派精緻な画風大名余技とは思えぬほど優れており、田能村竹田などは気韻生動があるとして絶賛している。花鳥画を得意とし、特に写生図譜虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料となっている。また文人画風の山水図画いた藩士十時梅厓春木南湖雪斎文人として力量見込まれ登用された。両名それぞれ長崎遊学させ、清人から画技を学ばせた。また幕臣大岡雲峰上條犀淵は雪斎画業弟子だったといわれる文人墨客との交わり好み、その庇護者ともなった酒造統制違反となり大坂追われ木村蒹葭堂を自領に招き窮地救ったことは有名である。 その他に大田南畝菊池五山宋紫石渡辺玄対大窪詩仏同じく文人大名で知られる福知山藩朽木昌綱などと交流した

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