文人大名
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7代藩主・佐竹義明の長男として誕生。母は5代藩主・佐竹義峯の娘・直。幼名は秀丸。初名は義直(よしなお)。 宝暦8年(1758年)5月11日、父・義明の死去により、家督を相続した。宝暦13年(1763年)2月15日、10代将軍・徳川家治に御目見する。同年12月9日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。明和2年(1765年)4月15日、初めてお国入りの許可を得る。この頃の久保田藩では飢饉や農村の荒廃、秋田騒動などにより藩政が混乱していたが、義敦はそんな現実から逃避したかったのか、絵を書くことに安らぎを求めた。[要出典]親交のあった土佐藩主・山内豊雍、薩摩藩主・島津重豪と合作の絵画も残っている。 当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛された。
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文人大名
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風雅を愛でた文人大名としては、雪斎の号でよく知られる。書は趙陶斎から唐様を学び、画は木村蒹葭堂を師とした。南蘋派の精緻な画風は大名の余技とは思えぬほど優れており、田能村竹田などは気韻生動があるとして絶賛している。花鳥画を得意とし、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料となっている。また文人画風の山水図も画いた。 藩士の十時梅厓や春木南湖は雪斎に文人としての力量を見込まれて登用された。両名をそれぞれ長崎へ遊学させ、清人から画技を学ばせた。また幕臣の大岡雲峰や上條犀淵は雪斎の画業の弟子だったといわれる。 文人墨客との交わりを好み、その庇護者ともなった。酒造統制違反となり大坂を追われた木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名である。 その他に大田南畝、菊池五山、宋紫石、渡辺玄対、大窪詩仏、同じく文人大名で知られる福知山藩主朽木昌綱などと交流した。
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