方広寺鐘銘事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 方広寺鐘銘事件の意味・解説 

方広寺鐘銘事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/01 01:53 UTC 版)

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、豊臣秀頼による方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、大坂の陣の契機の一つとなった事件である。徳川家康が鐘の銘に難癖をつけ、秀頼を開戦に追い込んだ。




「方広寺鐘銘事件」の続きの解説一覧

方広寺鐘銘事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「方広寺鐘銘事件」の解説

豊臣氏家康勧めで、地震等で滅失してしまった方広寺大仏(京の大仏)及び、大仏殿再建着手し慶長19年1614年8月3日大仏開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺梵鐘銘文中に不適切な語があると供養差し止めた問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射朝臣」については、「家康射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射朝臣」の本来の意味は、右僕射右大臣唐名源家康という意味である)、これは後世俗説である。 さらに8月18日京都五山長老たち鐘銘解釈を行わせた結果五山僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康一句御名犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣氏は、家老片桐且元鐘銘作成した文英清韓駿府派遣し弁明試みた。ところが、家康会見すら拒否し逆に清韓拘束し、且元を大坂返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協図ったが、豊臣氏拒否。そして、豊臣氏9月26日に且元を家康内通しているとして追放すると、家康豊臣氏浪人集めて軍備増強していることを理由に、豊臣氏宣戦布告したのである。 この事件は、豊臣氏攻撃口実とするために家康以心崇伝らと画策して問題化させたものである考えられているが、当時の諱の常識からすれば不敬考えられるものであり、また近年研究では問題化崇伝関与はなかったとされている。 その後も鐘はアジア・太平洋戦争中の金属供出免れ、鋳潰されるともなく方広寺境内残されている(重要文化財)。

※この「方広寺鐘銘事件」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「方広寺鐘銘事件」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。


方広寺鐘銘事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)

大坂の陣」の記事における「方広寺鐘銘事件」の解説

秀吉刀狩集めた刀剣類を「国土安全万民快楽」を掲げて材料として使用され京都方広寺大仏(京の大仏)は豊臣公儀象徴する存在で、その焼失後に豊臣家威信回復のために、秀頼は慶長14年再建へ着手した慶長19年1614年)、方広寺大仏殿はほぼ完成し4月には梵鐘完成した総奉行片桐且元は、梵鐘銘文南禅寺文英清韓選定させている。 且元は駿府家康大仏開眼供養導師日時報告などを逐次行っているが、開眼供養大仏殿供養日取り供養時の天台宗真言宗の上下を巡り対立生じていた。7月26日家康は且元にあてて、開眼大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札梵鐘銘文旧例そぐわないことに加えその内容問題があるとして開眼供養大仏殿上棟供養延期命じた8月家康五山の僧や林羅山鐘銘文を解読させた。羅山銘文家康呪詛意図があると断じたが、一方で五山答申概ね、諱を犯したことは手落ちしたものの、呪詛意図までは認めず相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康対す祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだ弁明している。それに加えて西国戦国大名書札礼継承した豊臣政権下では「実名」を書くことが尊敬の念を示すものとして扱われていた。 「国家安康」について五山の僧の見解を、江戸中期宝暦2年1752年)に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編十四)は次のように伝えている。 東福寺御名二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄) (名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いこと考える。) 国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可用捨、(守) (国家安康言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本庶民諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども天子執政将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。) 天龍寺御所様御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰) (家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分忘れた。) 南禅寺銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最) (銘文中に大臣家康)の名前の二字分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。) 第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪) (何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。) 相国寺銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申法度御座候事、(瑞保) (銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家しきたり知らないが、五山においてはある人物について書く時にその人の諱を除いて書くしきたりは無い。) 建仁寺銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽) (銘文国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。) 林羅山見解清韓弁明右僕射朝臣家康右僕射朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山) (右僕射朝臣は「源を射る」と読む意図考えられる。) 右僕射ト申ハ右大臣唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓) (右僕射というのは右大臣唐名である。王子誕生した際に蟇目鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし悪神射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康右大臣は)唐名書き、(両者を)間違えないように書き変えた。) 「国家安康国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山) (国家安康は、諱を侵している。無礼不法極まりないその上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。) 鐘ト申ス物ハ、奇特思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ四海太平歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、ナト連歌也、歌ノ作者一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後大幸也、(清韓) (鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海太平になり、歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全て家康の名を尊重するためである。諱について等の連歌歌の作者一字頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない名乗り(諱)は名乗り字名乗り用い漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人夏の虫のようになってしまった。御慈悲頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦し頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。) 「君臣豊楽」君臣豊楽子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シムトヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世祈祷ノ為タル事、(林羅山) (君臣豊楽子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世祈祷としている。) 是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓) (これも豊臣隠し題したものである。この例も昔にあったのである。) 宮本義己は「姓や諱そのもの政治的な価値求め賜姓偏諱盛んに行なわれ武家社会において、銘文文言は、徳川に対して何ら底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局わきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意せめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古渡邊大門影響与えている。(ただし、前述のように実名を書くことは豊臣政権下では尊称とされてもいる)この事件豊臣家攻撃口実とするため、家康崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説一般に知られているが、上記あるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し批判的見解示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康追及は終わらなかった。たとえ、銘文組んだ清韓豊臣側悪意はなかったとしても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人了解を得るべきものであった。姓が用いられ豊臣と、諱が用いられ家康扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対す追求執拗であったが、家康強引なこじつけ捏造とはいえず、崇伝問題化への関与当時史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝取り調べには加わっており、東福寺住持清韓救援崇伝依頼した断られている。清韓南禅寺追われ、戦にあたって大坂城篭もり戦後逃亡した捕らえられ駿府拘禁されたまま元和7年1621年)に没している。

※この「方広寺鐘銘事件」の解説は、「大坂の陣」の解説の一部です。
「方広寺鐘銘事件」を含む「大坂の陣」の記事については、「大坂の陣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「方広寺鐘銘事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「方広寺鐘銘事件」の関連用語

方広寺鐘銘事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



方広寺鐘銘事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの方広寺鐘銘事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家康 (改訂履歴)、大坂の陣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS