日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:32 UTC 版)
「ニコライ・ネフスキー」の記事における「日本留学」の解説
1913年、日本に二ヶ月間旅行に出掛け、東京に滞在し日本文学を研究した。1914年に大学卒業後、教授候補者として勉学を重ねた。1915年、大学の官費留学生として2年間の予定で日本に留学する。7月に東京につき、菊富士ホテルに逗留、約半年後に東京大学に通っていたニコライ・コンラドとともに本郷駒込林町に一戸を構え、ともに漢学者高橋天民から漢文を習った。その後、中山太郎を通して柳田國男・折口信夫・金田一京助・山中共古・佐々木喜善らと知り合う。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}新村出・羽田亨らとも親交を結んだ[要出典]。しかし、留学終了予定だった1917年、ロシア革命とロシア内戦が起こり、本国からの送金が停止されて働かなければいけなくなった上に、健康をも害し、帰国を断念する。 ネフスキーの日本語による最初の発表物は、1918年8月に日本の雑誌『土俗と伝統』に掲載された記事「農業に関する血液の土俗」と見なされていたが、桧山真一は、6か月前の1918年2月、雑誌『太陽』に、ニコライ・ソスニンという仮名で発表した記事「冠辞異考」を見つけた。 1919年から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)でロシア語教師を務める。 1921年から東京滞在中、アイヌ語と宮古島方言を研究した。アイヌ語はの二人の老女(コポアヌとタネサンノ)からアイヌ語を習い、メノコユカラ(女が語る叙事詩)やウェぺケレ(昔話)、ウパシクマ(言い伝え)を記録した。1922年大阪外国語学校に赴任してからも、鍋沢ワカルパの娘鍋沢ユキを半年ほど雇いアイヌ語の研究を続け、膨大な数のロシア語訳をのこし、その論文集は『アイヌのフォークロア(民俗)』の題名で1972年ソ連で出版された。 宮古島方言は東京高等師範学校に通っていた上運天賢敷(後に稲村賢敷と改姓、郷土史家となる)から学んだ。
※この「日本留学」の解説は、「ニコライ・ネフスキー」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「ニコライ・ネフスキー」の記事については、「ニコライ・ネフスキー」の概要を参照ください。
日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:37 UTC 版)
東京に留学し、1909年(明治42年)に陸軍中央幼年学校を卒業し、陸軍士官学校第23期生となる。当時、士官学校に留学していた韓国人は擎天一人だったが、陸軍幼年学校には、洪思翊や池青天など複数の留学生がいた。翌1910年の日韓併合に際しては、全員が衝撃を受け、脱走抗日を口にする者も多かった。擎天は洪思翊とともに、「吸収するべきものを吸収して時期をみよう」と自重を促したという。 1911年の5月、士官学校を卒業し、同年に任官。陸軍騎兵学校に進む前後に妻を呼びよせたものとみえ、二人がもうけた二男四女のうち、上の二人の娘は千葉で生まれている。 1919年(大正8年)、擎天は騎兵第一連隊所属の日本陸軍中尉として東京にいて、李光洙など留日朝鮮人学生たちの二・八独立宣言に接する。ただちに休暇をとり、妻子を伴って京城に帰った。
※この「日本留学」の解説は、「金擎天」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「金擎天」の記事については、「金擎天」の概要を参照ください。
日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:43 UTC 版)
さらに1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。さらに馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた。 この事を受けて溥儀らは北京の日本公使館に避難し、その後溥傑も日本政府の庇護を受けた。この後、1929年(昭和4年)3月に婉容皇后の実弟の潤麒と共に来日し、日本語等の学習後に、学習院高等科に留学する。
※この「日本留学」の解説は、「愛新覚羅溥傑」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「愛新覚羅溥傑」の記事については、「愛新覚羅溥傑」の概要を参照ください。
日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:28 UTC 版)
1914年、中高生時代の苦悶と1912年の不本意な結婚に苦しめられた郭沫若は日本へ留学する。留学前、天津陸軍軍医学校の試験を受験。実際は医学を学ぶ意志は無く、現実から逃れる為の選択であったが、日本へ留学してから郭沫若は真面目に医学を勉強しようと考えるようになり、第一高等学校予科に入学して1年間学んだ。その後、3番目の成績で卒業すると岡山の第六高等学校第三部医科に配属される。岡山に移住した郭沫若は、この地の風景と故郷を重ね合わせて懐かしんだ。 1918年9月、九州帝国大学医学部に無試験で入学する。医学部での解剖実習がきっかけで創作意欲を抱き始めた。最初の小説「髑髏」を構想したり、外国語の授業で読んだ文学作品から、小学校の頃から興味があった文学への意欲が再燃、郭沫若は文学への思いに燃えていた。何度も医学をやめようと考えていたが、難聴により打診と問診がうまくいかず、医業に従事するには大きな支障となる事から、ついに医師への道を諦めざるを得なくなる。熱狂的に詩歌創作を行なっていた郭沫若は、そのまま文学の道に進むこととなった。
※この「日本留学」の解説は、「郭沫若」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「郭沫若」の記事については、「郭沫若」の概要を参照ください。
日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:25 UTC 版)
1972年に上智大学に留学し、1975年にシカゴの放送学校(Institute of Broadcast Arts、IBA)を卒業した。 シカゴのコメディ劇団セカンド・シティに所属したり、コメディ・ライターとして活躍した後、ABCテレビの番組プロデューサー及び番組内における日本特派員として再来日する。
※この「日本留学」の解説は、「デーブ・スペクター」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「デーブ・スペクター」の記事については、「デーブ・スペクター」の概要を参照ください。
日本留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 22:20 UTC 版)
1952年、フォード財団の研究奨学金を受けて2年間、日本に留学することになった。京都と東京に滞在し、日本の美術や工芸作品に触れ、民芸運動の創始者(柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎)の禅に根ざした哲学に傾倒した。また、この間、祖父母の墓参りをしたり、全国津々浦々を旅行して日本の民話を収集したりと、日本の伝統、文化、価値を身をもって知ることになった。これは、ウチダの自己認識を大きく変えた。戦時下でドイツ系やイタリア系と違って日系だけが強制収容所に抑留され、日本人は敵性外国人だという偏見や迫害を受けたあまりにも辛い経験から、今ようやく日本人を先祖にもつ自分に誇りをもつようになったのである。彼女は『荒野に追われた人々』で、2年間の日本での経験により「日系アメリカ人としての私自身のなかに新たな次元を発見し、両親が生まれ育った文化に対する称賛や敬意を抱いて帰国した」と書いている。 帰国後、ウチダは『ニッポンタイムズ』(『ジャパンタイムズ』は1943年から一時期、軍部の圧力により「ニッポンタイムズ」へ題号変更を強いられていた) に日本の民芸運動を紹介する記事を掲載している。また、収集した民話をまとめたものとして『大ダコさまのぼうし (The Magic Listening Cap)』(1955)、『六兵衛と千個のおにぎり(Rokubei and the Thousand Rice Bowls)』(1962) などを発表した。前者は、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙の児童文学部門「春のブック・フェスティバル」賞を受賞した。
※この「日本留学」の解説は、「ヨシコ・ウチダ」の解説の一部です。
「日本留学」を含む「ヨシコ・ウチダ」の記事については、「ヨシコ・ウチダ」の概要を参照ください。
- 日本留学のページへのリンク