明治13年 (かのえたつ 庚辰)
年(年号) | |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 |
1880年
(明治13年 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 01:34 UTC 版)
1880年(1880 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。明治13年。
- 1 1880年とは
- 2 1880年の概要
- 3 誕生
- 4 死去
明治13年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:41 UTC 版)
1880年(明治13年)、東京に出てきて4年が経ち、23歳になった六郎は仇の姿を見つけられないまま無念の日々を送っていたが、11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、一瀬が東京上等裁判所に転勤し、すでに東京に戻って本芝3丁目に住んでいる事を知る。六郎は時機到来を悦び、心構えのため、討ち損じて自分が討たれた場合には事情を話す事が出来ないので、復讐の理由を記した書面を肌身に付けた。 裁判所までの通勤道を朝夕出退時間を見計らって見回ったが、一度も一瀬と遭遇せず、住居が間違っているのかと思い裁判所の門前なら確実であろうと、また朝夕裁判所の門外に立ち毎日周辺を徘徊して要撃の機会を伺ったが、どうしても一瀬の姿は見えない。ところが12月13日に銀座鍋町を通行中、突然一瀬を見かけた。市中では手を出せないので、密かに後を追うと、尾崎某と表札のある家に入った。その帰途を狙うべく尾崎宅前を張っていたが、いつの間にか一瀬の姿を見失ってしまった。しかし東京にいる事は間違いないので、さらに注意して上等裁判所の門前で待ったが、2、3日経っても現れない。12月17日、いつものように上等裁判所前で一瀬を待ったが、10時になっても出勤しないのでその日は諦めて帰ろうとしたが、以前一瀬が時々碁を囲みに旧秋月藩主の黒田邸を訪れる事を思い出す。何が手掛かりが得られるかもしれないので、いつ一瀬に遭遇してもいいように短刀を忍ばせ京橋区三十間堀3丁目10番地(現・銀座6-15、6-16あたり)の黒田邸に向かった。
※この「明治13年」の解説は、「臼井六郎」の解説の一部です。
「明治13年」を含む「臼井六郎」の記事については、「臼井六郎」の概要を参照ください。
明治13年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 02:25 UTC 版)
2月26日、大蔵省は、国立銀行貸付金額を1口につき資本金額の10分の1に制限する旨(国立銀行条例第56条)を再達した。(大蔵省達)
※この「明治13年」の解説は、「国立銀行条例」の解説の一部です。
「明治13年」を含む「国立銀行条例」の記事については、「国立銀行条例」の概要を参照ください。
- 明治13年のページへのリンク