暴君としての光海君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:00 UTC 版)
近代以降、文献批判を基礎とする現代歴史学が導入されたことと、李氏朝鮮滅亡によって王朝の公式記録を絶対視する必要がなくなったことで、学者の中には光海君は暴君ではなかった可能性があると指摘するようになった。 上記の通り、光海君は燕山君同様に暴君として廃位されているものの、在位中に行った行為は先述の通り戦乱で疲弊した朝鮮国内における復興政策や、かつての敵国であった日本との国交回復、斜陽となった漢族系の明朝に代わって勃興してきた満州族系の後金(後の大清帝国)との関係も重視するなど、東アジアの諸民族間でバランスの取れた中立外交政策などの実績を残しており、(暴君と言われるほど)決して悪いものではなかったものも少なくない。 強いて言うなら西人派の粛清や仁穆大妃を初めとする肉親の王族の廃位であるが、これ自体も光海君自身の決定であったかどうかは疑問が残る。光海君が生まれた年は、士林が東人派と西人派に分裂した年であり党争が絶えず、国政についても光海君本人の決定ではない議題も少なくなかった(尤も、肉親の王族の廃位は光海君自身が決めたのではなく、その側近の李爾瞻が独断で実行し、廃位を決定したという見方もある)。廃位についても燕山君の時とは異なり、西人派による宮廷クーデターという経緯があるため、本人の行状というよりも党争に巻き込まれた形としての廃位という印象も強い。故に廃位こそされたものの、このような情勢であった以上、暴君であったかどうかは分からないのが現状である。
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