書画
書画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:18 UTC 版)
円空の書画には富士山を描いた富士図が四点残されている。岐阜県岐阜市の円空美術館に収蔵されている「富士図」は縦32.0センチメートル、横46.5センチメートル。高山市の個人旧蔵のもので、噴煙をあげている富士の姿が描かれている。江戸時代には円空没後の宝永4年(1707年)に宝永噴火が起きているが円空の存命中に富士噴火は記録されていない。円空の残した4点の富士図はいずれも噴煙をあげた富士の姿が描かれており、円空が想像で描いたとも考えられている。一方でこのころ富士が小規模な噴煙をあげていたことを記す紀行文もあることから、円空が実見した富士の姿を描いたとする説もある
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書画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
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書画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 04:30 UTC 版)
孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。
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書・画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 09:09 UTC 版)
書は蘇軾・米芾・黄庭堅などの宋代の書に師法し、行書・草書に秀でた。袁宏道が「八法の散聖、字林の侠客」と評したように自由奔放な書風を確立した。清の八大山人・石濤・揚州八怪らは徐渭の書風を強く敬慕した。 京都鷹峯の太閤山荘には小堀遠州作の茶室「擁翠亭」が移築されており、そこの扁額は、徐渭が万暦20年(1592年)に書いたもので、現在その写しが掲げられている。 画は牧谿など宋・元の花卉図を模範とし、やはり自由奔放で大胆な画風であった。陳淳とともに写意画派の代表とされる。徐渭は好んで水墨の花卉雑画を画き、自作の題詩を書き込んでいる。山水図はあまり画かなかった。その画風は清初の八大山人・石濤、また鄭燮や李鱓、清末の趙之謙・呉昌碩・斉白石・潘天寿など後の大家に強い影響を与えた。
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