最期の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:07 UTC 版)
最期の地に関しては、いくつかの伝承が伝わる。 元播磨隠棲説=(上野国群馬郡桃井郷周辺) 吉岡町史、榛東村史に同様の内容が紹介されている。 群馬県吉岡町には元播磨という地名があり、直常がいたという。地元に伝わる話として、正平21年(1366年)9月、越中国で斯波義将らとの戦いで大敗してしまい、再起叶わず故郷上野国に立ち帰り、旧領桃井荘近辺に隠棲したともいわれている。 現地付近には三国街道沿い側に桃井塚(伝桃井直常墓)と呼ばれる古い五輪塔2基がのこり、一つは直常、もう一つは直常奥方の墓といわれる。五輪塔にみだりに触れたりすると何かしらの祟りや災いがあるとのことで、地元住民に恐れ崇められ、現在も丁重に祀られている。 直常の墓として信憑性が高いと考えられているものの、現在は周辺が住宅地や耕作地になり、遺跡は現存していない。 松倉城病死説=(越中国新川郡松倉郷鹿熊) 魚津市史に紹介されている。 地元に伝わる話として正平21年9月、越中国で斯波義将との戦いで大敗し、松倉城(富山県魚津市)に逃れて病死した。その後、斯波義将によって城は落城したという。こちらでは直常の墓は残っていない。(魚津古今記) また大永年間に上野国金山城の横瀬泰繁(法名宗虎)の客将となっていた、河内国から来た楠掃部(入道成観)という武士が横瀬氏家臣らから祖先の功績や話を聞いて著したといわれる『新田家臣祖裔記』という書物には足利直義死後に南朝方に与した桃井氏についての記述があり、桃井直常は越中国松倉城で病死していたという旨を記載している。 岩瀬城自害説=(越中国婦負郡西岩瀬) 富山県立図書館蔵の『西岩瀬郷土史』、『四方郷土史話』(布目久三著)に、富山藩士野崎伝助が越中国の伝承を撰述した『喚起泉達録』の記録として紹介されている。 現在、岩瀬城のあった場所には江戸時代初期に再建された海禅寺という寺が建つ(富山市西岩瀬定籍)。慶長末期までに一度寺はなくなっていたと伝わる。周辺には耕作地と墓地になっており遺跡はない。 この岩瀬城に越中守護斯波義将との戦いに敗れた直常が逃れ、ここも攻めたてられて力及ばず、嫡子権太郎直政、四男康儀、桃井縫殿助庸治、鬼一十郎泰弘、岩瀬城主小出景郡、畠山重弘らと枕を並べ自害し火をかけた。 この際、直久は城から脱出し、直常の首を持ち去り、放生津(富山県射水市)に逃げて、向かいの山に葬った。のちここに「柳井院」(りゅうせんいん)と呼ばれた寺が実在したとあるが、関連する史跡が残っておらず信憑性は低い。 海禅寺には直常形見と言われた「桃家之百夜露」という太刀と「桃花の鎧」という鎧が寺宝としてあった。直常の子孫が岩瀬近隣におり、弘治年間に越中国に能登国より畠山義則が乱入し、日蓮宗に改宗を強いたため、これに反発した寺院、土豪、村までが弾圧された。これを恐れて直常の子孫は武蔵国蕨まで逃れたという。この際、寺宝『桃花の鎧』が持ち出された。埼玉県戸田市上戸田にある瑞光山海禅寺(明治時代の住職:越谷泰俊)はその別れた寺と伝える。 長沢の戦い討死説=(越中国婦負郡長沢) 大山町史に紹介されている。 越中守護斯波義将との戦いにおいて敗れ、子の直和が討ち死したと伝わるが、実際は直常が討ち死した。根拠はないものの、その後史料に登場しないことなどから、死んだと考えられている。またこの際、飛騨に退いたのは直和とも。
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