朝鮮独立運動
朝鮮独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:57 UTC 版)
江華島事件をきっかけにして朝鮮の開化派リーダーの動きが活発となり、当時顧問的な役割を務めていた福澤諭吉の下を訪れた兪吉濬、金玉均、朴泳孝、徐載弼らも会に参加。1881年(明治14年)には慶應義塾に亡命してきたこれら朝鮮のリーダーたちとの連携も密になり、『漢城旬報』の新聞発行協力、更には長じて中村正直も援助に奔走した。1882年(明治15年)に壬午事変が起こると、学業を中断して帰国。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}興亜会から朝鮮へ工作員を送り込むことも計画されていた[要出典]。1884年(明治17年)12月4日に勃発した甲申政変によるクーデターが失敗に終わると、福澤が創立した『時事新報』は1885年(明治18年)3月16日号に社説『脱亜論』を掲載した。これ以降は頭山満の玄洋社の活動など『征韓論』的な対外強硬論が目立つようになり、これ以後の日本におけるアジア主義の定義は、元来の「清国との対等提携志向性・朝鮮対等志向性重視」のものと完全に反対のものになった。なお福澤は、荒尾精が『日清貿易研究所』(後の東亜同文書院大学)を開設するにあたって弟子の猪飼麻次郎を塾頭に推薦し、就任させている。
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