本多政利
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本多 政利(ほんだ まさとし)は、江戸時代前期の大名。大和郡山藩主・本多政勝の子。お家騒動の末に6万石を分知され、その後播磨明石藩主に移される。失政などを咎められて陸奥大久保藩1万石に減転封された上、行状が改まらなかったことを理由に改易処分を受けた。官位は従五位下出雲守。
注釈
- ^ 当時は姫路藩主。
- ^ 当時は姫路藩から4万石を分知されていた(部屋住み領[5])。「姫路新田藩主」ともされる[要出典]。政勝の父・本多忠朝は大多喜藩5万石の藩主であったが、大坂の陣で戦死した。政勝は慶長19年(1614年)に生まれたばかりであり、忠朝の領知は甥の政朝に与えられたという経緯がある[6]。政朝の兄・忠刻が早世したため、政朝が忠政の嫡子となり、寛永8年(1631年)に家督を相続して姫路藩主となるが、この際政朝の旧領5万石のうち4万石が政勝に与えられた。
- ^ 政勝が知行していた4万石は、政勝の長男(政利の兄)である本多勝行が継ぎ、寛永16年(1639年)に父が郡山藩に移されると、勝行の4万石の領地も大和国に移された[6](部屋住み領[8][5]。「郡山新田藩」ともされる[要出典])。
- ^ 本多忠朝の官途が出雲守。
- ^ 水戸藩の支藩である常陸額田藩主・松平頼元(徳川頼房の四男)の二男[1]。本多家とは女系で血がつながっており、本多忠政の次女・円照院が小笠原忠真との間に儲けた娘が、頼元との間に儲けた子が忠国である。なお、本多政利は頼房の娘を正室に迎えているため、忠国は政利の義理の甥にあたる。忠国は政長の娘と婚約をしており、婿養子となるはずであったが、政長の娘は早世した[12]。
- ^ 延宝9年/天和元年(1681年)、徳川綱吉は将軍就任後に諸国に巡見使を派遣、大名の統治や軍備についての調査を行わせた[16]。巡見使は後年には儀礼化するが、天和元年の派遣時には、領民が領主や藩役人の悪政を巡見使に訴え出て処分に結び付くなど[16]、将軍権力を強化し支配機構を粛正する実効性を有していた[17]。越後高田藩の藩政の混乱(越後騒動)は延宝9年(1681年)に綱吉の親裁により松平光長の改易という結末を迎えるが、領民から虐政の訴えを受けた巡見使から提出された報告が判断のもとになっている[16]。
- ^ 『寛政譜』の本多政利の項には「巡見の使封地にいたるのとき、其はからひ御旨に違ひしにより」とある[1]。
- ^ 『土芥寇讎記』では居所を「奥州岩瀬」としている[20]。
- ^ 『寛政譜』によれば「先に御気色をかうぶるの処、いまに至て其行跡をあらためず。させる罪科もなき侍女を殺害し、不仁なる所行台聴に達し、領知を没収せられ」[1]。『徳川実紀』によれば「平常の言行不良なれば、さきにもいましめられしに、こたび罪なき婢を殺したるにより、所領一万石収公せられ[21]」とある。
- ^ 国民図書版刊本の本多氏の系譜では「政定」としているが[1]、国会図書館蔵の写本では「政真」が正しい[22]。
- ^ 本多忠朝(政利の祖父)の正室が一柳直盛(直治の祖父)の娘という縁戚関係にある。
- ^ この史料は『藩史大事典』が引くもので[24]、原史料名は「万集留記」(須賀川市渡辺一家文書)であるという。
- ^ なお、同年12月に水野忠之は吉良邸に討ち入った赤穂浪士のうち9人の預かりも命じられている(水野監物邸跡参照)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.636。
- ^ a b c d “本多政利”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “ふるさと昔話 - 039/056page”. ふるさと昔話. 岩瀬村教育委員会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b 茨城県立図書館(回答). “徳川諸家系譜などを見てわからなかった以下のことについてもしわかれば教えてください”. レファレンス協同データベース. 2023年6月10日閲覧。
- ^ a b “本多勝行”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.651。
- ^ “本多政勝”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『藩と城下町の事典』, p. 428.
- ^ a b c d e 上田哲也 2022, p. 7.
- ^ “郡山藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『藩と城下町の事典』, p. 429.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.637。
- ^ a b c “明石藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c 『藩と城下町の事典』, p. 470.
- ^ a b “小久保村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c 馬場憲一 1972, p. 62.
- ^ 馬場憲一 1972, p. 63.
- ^ a b “ふるさと昔話 - 038/056page”. ふるさと昔話. 岩瀬村教育委員会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “大久保藩”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ 白峰旬 2008, p. 114.
- ^ 『徳川実紀』巻二七
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国会図書館所蔵写本『寛政重修諸家譜 1520巻 (161)』103/154コマ。
- ^ a b c d e 小田真裕 2004, p. 16.
- ^ 小田真裕 2004, p. 18.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六十五「酒井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.362。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十三「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.860-861。
- ^ “六代酒井忠真”. 荘内酒井歴史文化振興会. 2023年6月5日閲覧。
- ^ 須田茂 1998, p. 211.
- ^ a b c d e f “明石の史跡(32)本多政利と瓜坊”. 兵庫県学校厚生会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十二「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.641。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十二「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.640。
- ^ “女の、男への。母の、子への。妻の、夫への。様々な「情」が乱反射する周五郎の短編世界#3”. 本の話. 文藝春秋. 2023年6月25日閲覧。
- ^ “山本周五郎時代劇 武士の魂「茶摘は八十八夜から始まる」”. BSテレ東. テレビ東京. 2023年6月25日閲覧。
- ^ “忍ジャニ参上!未来への戦い 作品情報”. 映画の時間. ジョルダン. 2023年6月5日閲覧。
- ^ “徳川四天王本多忠勝と子孫たち : 岡崎藩主への軌跡 : 企画展”. CiNii. 2023年6月5日閲覧。
- ^ a b “寺井玄渓”. 朝日日本歴史人物事典(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- 1 本多政利とは
- 2 本多政利の概要
- 3 系譜
- 4 大衆文化において
固有名詞の分類
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