李蒙とは? わかりやすく解説

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李蒙Li Meng

リモウ

(?~195
漢撫軍中郎将

董卓部曲董卓伝》。誤って象」とも書かれる後漢紀》。

董卓の命により、李蒙は徐栄とともに四方出征し略奪働いていた《後漢書董卓伝》。初平三年一九二)四月董卓王允殺されると、まもなく李傕らが十万余り軍勢糾合しつつ長安西上した。李蒙は樊稠王方とともに合流し一斉に長安城包囲十日間でこれを陥落させた《董卓伝》。

興平二年(一九五)二月、撫軍中郎将李蒙は、李傕の手にかかり樊稠とともに誅殺された《後漢紀》。

参照王允 / 王方 / 徐栄 / 董卓 / 樊稠 / 李傕 / 長安県 / 撫軍中郎将 / 部曲


李蒙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 00:03 UTC 版)

李蒙
後漢
撫軍中郎将
出生 生年不詳
死去 興平2年(195年)2月
拼音 lǐ méng
主君 董卓李傕
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李 蒙(り もう)は、中国後漢末期の武将。

事績

初めは董卓に仕えた。孫堅が董卓討伐の兵を挙げた時、董卓はこの迎撃に先立ち、徐栄と李蒙を四方に派遣し、虜掠[1]を行わせた。この時に徐栄が孫堅と遭遇し、これを撃ち破った[2]

初平3年(192年)、王允呂布らが董卓を暗殺し、政権を握る。李蒙は董卓旧臣の李傕樊稠王方らと合流し、長安の城を陥落させ、この勢力を駆逐した[2]

興平2年(195年)2月、撫軍中郎将の官にあったが、李傕によって殺害された[3]

三国志演義

羅貫中の小説『三国志演義』では第9回で登場。李傕らが董卓の仇討ちのために攻め寄せてきた時、李蒙と王方は長安の内部からこれと内通し、王允・呂布らの勢力を駆逐する[4]

李傕らの政権が誕生すると校尉に任じられる。馬騰韓遂の軍が長安に攻め寄せると、賈詡は専守防衛を主張するが、李蒙と王方はこれに反対。15000の兵を与えられ、馬騰らを迎撃する。しかし王方は馬超との一騎打ちで敗北。李蒙は退却する馬超を追撃するが、槍を突き出したところを身をかわされ、生け捕りにされた後、斬首刑に処される[5]

脚注

  1. ^ 人を生け捕りにして、財物や土地を掠奪すること。虜掠(りょりゃく)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 2024-04-16閲覧。
  2. ^ a b 范曄後漢書』董卓伝 s:zh:/後漢書/卷72
  3. ^ 袁宏『後漢紀』孝献皇帝紀 s:zh:後漢紀/卷28
  4. ^ s:zh:三國演義/第009回
  5. ^ s:zh:三國演義/第010回


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