東アフリカへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 11:40 UTC 版)
「ブーサイード朝」の記事における「東アフリカへの進出」の解説
詳細は「オマーン帝国」を参照 1807年にスルターンの遺児であるサーリムとサイード(サイイド・サイード)がバドルを殺害し、サイードは即位当初サウード王国への従属を表明していたがやがて貢納を拒むようになり、イランのガージャール朝に援軍を要請する。1808年にサイードはラアス・アル=ハイマを支配するカワーシム族を攻撃するが敗北し、再びサウード王国に従属した。1809年、サイードはカワーシム族の海賊行為に業を煮やしたイギリスと連合し、ラアス・アル=ハイマとサウード王国の軍事拠点を破壊した。 サイードはイギリスの東アフリカへの進出を予見し、東アフリカ沿岸地域の支配の強化に乗り出した。ザンジバルはブーサイード朝の支配下にあったものの、沿岸部の都市国家の多くはオマーン本土から独立していた。モンバサを支配するマズルーイー家はブーサイード朝の正統性を認めず、ブーサイード朝とマズルーイー家の戦争は1837年まで断続的に行われる。1840年頃からサイードは居住地をザンジバル島に移し、彼の治世でモガディシュからモザンビークとの国境に至る地域がブーサイード朝の支配下に入った。1856年にサイイド・サイードが没した後、ザンジバルはオマーンの政府から分離する。 マスカットに居住していたサイードの子スワイニーはマスカットとザンジバル両方の支配権を主張し、ザンジバルに居住していたスワイニーの兄弟マージドはマスカットからの独立を主張した。双方の緊張が頂点に達した1859年にスワイニーは艦隊をザンジバルに派遣するが、イギリスの仲裁で攻撃を取りやめた1862年にイギリスのカニング裁定によってオマーンとザンジバルの分離が決定した。ザンジバルを喪失した損害を補填する補助金がイギリス領インド政府からオマーンの政府に支払われ、オマーンは事実上のイギリスの保護国となった。
※この「東アフリカへの進出」の解説は、「ブーサイード朝」の解説の一部です。
「東アフリカへの進出」を含む「ブーサイード朝」の記事については、「ブーサイード朝」の概要を参照ください。
東アフリカへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:34 UTC 版)
「サイイド・サイード」の記事における「東アフリカへの進出」の解説
サイードが即位したとき、オマーン本土の経済は少しずつ衰えていた。18世紀にはエジプトの政情不安によってペルシア湾経由での交易が盛んになっており、ペルシア湾交易の喉首を押さえるオマーンの首都・マスカットは交易船でにぎわったものの、19世紀になるとエジプトの状態は回復に向かっており、マスカットの賑わいは過去のものとなりつつあった。オマーンは17世紀のヤアーリバ朝の時代にポルトガルを駆逐し、東アフリカに勢力を伸ばしたものの、その後のオマーン本土の混乱によりアフリカ諸都市のオマーン人豪族が相次いで独立し、サイードの時代にはザンジバルだけがかろうじてオマーンの支配下に残っている状態だった。 1828年、サイードは自ら旗艦リバプール号(イギリスに注文した帆船)に乗り込み、モンバサをはじめとするアフリカ東部沿岸の諸都市を攻撃した。ヤアーリバ朝からリワリ(総督)の地位を与えられたモンバサのマズルイ家はブーサイード家の支配を認めず、サイードとマズルイ家の戦争は1837年まで続いた。サイードはソマリアからモザンビークとの国境にいたる東アフリカの沿岸をオマーン領に組み入れ、東アフリカのスワヒリ諸都市は史上初めて緩やかな連合体として統一を達成する。
※この「東アフリカへの進出」の解説は、「サイイド・サイード」の解説の一部です。
「東アフリカへの進出」を含む「サイイド・サイード」の記事については、「サイイド・サイード」の概要を参照ください。
- 東アフリカへの進出のページへのリンク