東ティモール独立運動
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「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事における「東ティモール独立運動」の解説
しかし同年、ホテル・レゼンデのバーでアメリカ人観光客と話した際に、「ポルトガルが開発できないのならアメリカ人にやらせたほうがましだ、もしポルトガル人が開発できないのならギニアビサウのようにやってやる(独立運動をする)」 と言っていたことが警察に伝わり、2年間、モザンビークに追放された。1972年に帰国後、ジャーナリストとして活動を始める。 1974年1月14日付のオーストラリアのノーザンテリトリー・ニューズ紙のインタビューで、モザンビーク解放戦線初代党首のエドゥアルド・モンドラーネの言葉を引用して、ポルトガルの植民地政策を批判した。これがポルトガル植民地省を激怒させ、ホルタはオーストラリア留学という名目で2度目の追放処分を受けた。ホルタは4月27日に出国が決まっていたが、4月25日にポルトガルで軍事クーデター(カーネーション革命)が起きたため中止となった。同年、ティモール社会民主協会(ASDT)の設立に参加。ホルタは外交担当となり、インドネシアやオーストラリアに派遣された。ASDTは同年、東ティモール独立革命戦線(FRETILIN、フレティリン)に改称した。 1975年、インドネシアの侵攻を受けるなか独立を宣言した東ティモール民主共和国では外務大臣の役職にあった。フレティリン内では穏健派としてマリ・アルカティリと対立し、東ティモール民主共和国の独立宣言にも反対の立場にあった。インドネシア侵攻直後には、アビリオ・アラウジョとともに国連安保理の討議での発言を許された。 その後、フレティリンは国際社会の支援を得るためポルトガルのリスボンに海外代表部を置き、ホルタはニューヨークで活動を続けた。1988年、シャナナ・グスマンが、民族統一戦線の結成のためにフレティリンを離脱してマウベレ民族抵抗評議会(英語版)(CNRM)を結成したが、フレティリン海外代表部がこれを拒否したため、ホルタもフレティリンを離脱し、シャナナとCNRMの海外代表を担うこととなった。1994年に欧州議会人権委員会で、東ティモール人の自決権行使を3段階によって達成しようとする和平案を発表し、注目を浴びた。また、1995年に国連の仲介によって実現した「全東ティモール人包括対話」でも重要な役割を果たしている。1996年、「東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決への尽力」を評価され、カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教とともにノーベル平和賞を受賞した。1998年、CNRMがCNRT(ティモール民族抵抗評議会)に改組されると、ホルタは副総裁に選出された。
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