東ティモール独立運動とは? わかりやすく解説

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東ティモール独立運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 22:36 UTC 版)

ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事における「東ティモール独立運動」の解説

しかし同年、ホテル・レゼンデのバーアメリカ人観光客話した際に、「ポルトガル開発できないのならアメリカ人やらせたほうがましだ、もしポルトガル人開発できないのならギニアビサウのようにやってやる(独立運動をする)」 と言っていたことが警察伝わり2年間、モザンビーク追放された。1972年帰国後、ジャーナリストとして活動始める。 1974年1月14日付のオーストラリアのノーザンテリトリー・ニューズ紙のインタビューで、モザンビーク解放戦線初代党首エドゥアルド・モンドラーネ言葉引用してポルトガルの植民地政策批判した。これがポルトガル植民地省を激怒させ、ホルタオーストラリア留学という名目2度目追放処分受けたホルタ4月27日出国決まっていたが、4月25日ポルトガル軍事クーデターカーネーション革命)が起きたため中止となった同年ティモール社会民主協会(ASDT)の設立参加ホルタ外交担当となり、インドネシアオーストラリア派遣された。ASDT同年東ティモール独立革命戦線(FRETILIN、フレティリン)に改称した1975年インドネシア侵攻を受けるなか独立宣言した東ティモール民主共和国では外務大臣役職にあった。フレティリン内では穏健派としてマリ・アルカティリ対立し東ティモール民主共和国独立宣言にも反対の立場にあったインドネシア侵攻直後には、アビリオ・アラウジョとともに国連安保理討議での発言許された。 その後、フレティリンは国際社会支援を得るためポルトガルリスボン海外代表部を置き、ホルタニューヨークで活動続けた1988年シャナナ・グスマンが、民族統一戦線結成のためにフレティリンを離脱してマウベレ民族抵抗評議会英語版)(CNRM)を結成したが、フレティリン海外代表部がこれを拒否したため、ホルタもフレティリンを離脱しシャナナとCNRMの海外代表を担うこととなった1994年欧州議会人権委員会で、東ティモール人の自決権行使3段階によって達成しようとする和平案を発表し注目浴びたまた、1995年国連の仲介によって実現した「全東ティモール包括対話」でも重要な役割果たしている。1996年、「東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決へ尽力」を評価されカルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教とともにノーベル平和賞受賞した1998年、CNRMがCNRT(ティモール民族抵抗評議会)に改組されると、ホルタ副総裁選出された。

※この「東ティモール独立運動」の解説は、「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の解説の一部です。
「東ティモール独立運動」を含む「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の記事については、「ジョゼ・ラモス=ホルタ」の概要を参照ください。

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