東ローマ帝国時代
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街は375年と551年に地震で破壊された。 395年~396年、西ゴート族のアラリック1世がギリシャに侵攻した。コリントスは彼によって略奪された都市のひとつとなり、多くの市民が奴隷として売られた。 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位: 527年 - 565年)治下、サロニコス湾からコリント湾まで大きな石壁が建てられ、都市とペロポネソス半島を北方の蛮族の侵攻から守った。石壁は、長さ約6マイル(10キロメートル)で、エクサミリオンと名づけられた。この時代、コリントスはヘラス(現代のギリシアを意味する)のテマ(軍管区)の中心であった。 12世紀(コムネノス王朝の支配の間)、コリントスは西ヨーロッパのラテン諸国との絹の交易によって繁栄した。しかしその富はルッジェーロ2世治下のシチリアのノルマン人の注意を惹き、1147年に略奪されることとなった。
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東ローマ帝国時代
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東ローマ帝国時代のギリシャ人は、他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱら「ギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は、ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ロマイオイ(ギリシア語: Ρωμαίοι ローマ人 中世・現代ギリシア語ではロメイ)と自称しており、「ヘレネス(エリネス)」は古代の異教徒、あるいは地方都市や農村の住民のことをさしていた。212年のアントニヌス勅令によってローマ市民権はローマ帝国内の全自由人に与えられていたからである。古代ローマ時代のことを「父祖の時代」と呼び、古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民の末裔であることを誇りにしていたのである。例えば、10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、その著書『テマの起源について』の中で、ヘラクレイオス朝時代(610-711)に帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に改められたことを「父たちの、ローマ人の言葉を捨てた」と表現している。 その一方で、東ローマ帝国の知識人階層においてはホメロスの詩を暗唱できるのが常識とされ、中等教育では古典ギリシャ語の文法が教えられるなどされたように、古代ギリシャの古典文化が尊重されていた。 特に、東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝期には、ギリシャ古典文化が大いに見直されて復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期のギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国のギリシャ人の一部は、ヴェネツィア共和国によるペロポネソス半島、キプロス島、クレタ島などの支配や1453年のコンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。西ヨーロッパに渡ったギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。 この時代のギリシャ人について、日本の世界史教育で「東ローマ帝国によるギリシャ人の支配」と表現されることが多いが、東ローマ帝国時代は皇帝・高級官僚・コンスタンティノープル総主教など支配階級の多くがギリシャ人によって占められていた史実に鑑みると、その表現は妥当性を欠いている。 また、「1821年のギリシャ独立によって、ギリシャ人は約2000年ぶりに独立を回復した」というような表現をされることも多いが、おそらく古代ギリシャからずっとギリシャ人が政治的に主権を持つ時代がなかったと決めつけるために生まれる、不正確な表現であるといわなくてはならない。実際は、オスマン帝国からの支配から数えれば、正確には368年ぶりの独立である。駐日ギリシャ大使館のサイトでも、東ローマ時代をギリシャ人の歴史の一部として扱っている。 さらに一部の教科書には、東ローマ帝国における「皇帝教皇主義」の説明として、東ローマ皇帝とコンスタンティノープル総主教が同一人物であるかのごとき表現も散見されるが、両者ははっきりと別人であり、東ローマ帝国時代には総主教が皇帝の摂政・相談役であったり、さらには両者のあいだには何度か反目や軋轢が生じたことさえあった。 「ビザンティン・ハーモニー」も参照
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東ローマ帝国時代
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東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の時代、5世紀頃になるとベル神殿、それにバールシャミン神殿(英語版)はキリスト教会に転用され、また、バールシャミン神殿の西約150メートルの場所には、その5-6世紀頃に資材を再利用して建設された2つのキリスト教会の跡がある。5世紀末から6世紀にかけて東ローマ帝国と同盟関係を持ったガッサーン族(英語版)(ガッサーン朝〈ジャフナ朝、Jafnids〉)のアラブ系王朝が、5-6世紀、シリア砂漠を支配していた。その宮廷アラビア詩人ナービガ(英語版)(アル=ナービガー=アル=ドビアーニ)は、ジン(神霊)がパルミラ(タドモル)を建設したと伝えたことにより、後の1348年初頭にイブン・バットゥータがバグダードからダマスカスに向かう途中パルミラを訪れた際、ジンが築いたというナービガの詩を引用している。皇帝ユスティニアヌス1世(在位527-565年)の時代にはパルミラの周壁(英語版)が補強されている。
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東ローマ(ビザンツ)帝国時代
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「ギリシャの歴史」の記事における「東ローマ(ビザンツ)帝国時代」の解説
詳細は「東ローマ帝国」および「東ローマ帝国支配下のギリシャ」を参照 395年、ローマ帝国は東西に分裂し、ギリシャは東ローマ帝国(コンスタンティノープルの旧称ビュザンティオンから後世「ビザンツ帝国」・「ビザンティン帝国」と呼ばれる。正式国号は「ローマ帝国」のまま)の勢力範囲に収まった。ビザンツ帝国はコンスタンティノープルを首都としたことや6世紀に奪回したラテン語圏の西方領土が7世紀に入ってからイスラーム帝国の侵攻などによって失われ、ギリシャ語圏のみが領土の大半となったために文化的にギリシャ化しはじめ、7世紀には帝国の公用語はギリシャ語となった。ビザンツ帝国の公用語がギリシャ語になって以来、事実上、ビザンツ帝国はギリシャ人の国家となった。ビザンツ帝国は西ローマ帝国のようなゲルマン民族の大移動による影響は最小限で済んだが、6世紀以降、スラブ民族の侵入と定住、9世紀にはアラブ人の侵入、10世紀後半のブルガリア人の攻撃など、初期においては内憂外患に悩まされた。しかし11世紀初頭、皇帝バシレイオス2世の元、ビザンツ帝国が東ヨーロッパを平定すると、東方キリスト教文化が各所に至ることとなり、テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂やアテネ近郊のダフニ修道院でこの一端が残っている。
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東ローマ帝国時代
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「アエギュプトゥス」の記事における「東ローマ帝国時代」の解説
コンスタンティヌス1世の治世に、ローマ帝国の新しい首都としてコンスタンティノポリスが建設された。そして4世紀のうちに帝国は東西2つに分裂し、アエギュプトゥスはコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国に含まれることになった。東ローマ帝国は、7世紀に入ると公用語がラテン語からギリシア語に変わった。また392年にローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教に定めた影響により、キリスト教以外の異教は完全に駆逐された。古代エジプトの司祭は消え、ヒエログリフ(神聖文字)を読める者はいなくなり、異教の寺院は教会に改築されたり放置されて砂漠化したりした。 古代ローマ後期以降、旧来のグレコ・ローマンの風土が薄れるにつれ、ローマ帝国の政治体制は東方のサーサーン朝などの影響が見られるようになっていった。市民が権利を持つギリシア流の政治制度は形骸化し、新しい名前が付いた官職の多くは、地主階級の一族の世襲となった。アレクサンドリアは帝国の第2の大都市として繁栄し、一方では宗教上の論争や暴動の面でも中心であった。 ユダヤ人が多くのキリスト教徒を殺害する事件が起きて、それに反発したアレクサンドリア教会のキュリロスは暴徒と共に町の長官に掛け合い、アレクサンドリアからユダヤ人を追放させた(415年)。哲学者ヒュパティアはキリスト教徒に異教徒として殺されたが、これによって古代ギリシアから受け継がれる学問は、アエギュプトゥスでは途絶えた。他にも教会分裂を原因とする内紛は延々と続き、そのために帝国の中でもアエギュプトゥスは異質な存在となった。 また宗教的に、「イエス・キリストが人性と神性の二つを持つか、一つしか持たないか」を論点にして新しい論争が巻き起こった。当時のキリスト教では、これは帝国を二分するような大問題に発展した。381年の第1コンスタンティノポリス公会議の後、アエギュプトゥスでは単性説の主張が盛んになったが、451年のカルケドン公会議で両性説が採用されるに至った。単性論者はこの決定に納得できず、自分達は正教派と同じ立場をとっているのに誤解されていて、カルケドン公会議の決定は政治的になされたものだと主張した。この後もアエギュプトゥスとシュリア属州では単性論者が隠れ潜んで正統派に抵抗し、その抗争は570年代に鎮圧されるまで続いた。
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