東ローマ帝国時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東ローマ帝国時代の意味・解説 

東ローマ帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 23:42 UTC 版)

コリントス」の記事における「東ローマ帝国時代」の解説

街は375年551年地震破壊された。 395年396年西ゴート族アラリック1世ギリシャ侵攻したコリントス彼によって略奪され都市のひとつとなり、多く市民奴隷として売られた。 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世在位: 527年 - 565年治下サロニコス湾からコリント湾まで大きな石壁建てられ都市ペロポネソス半島北方蛮族侵攻から守った石壁は、長さ約6マイル10キロメートル)で、エクサミリオンと名づけられた。この時代コリントスヘラス現代ギリシア意味する)のテマ軍管区)の中心であった12世紀コムネノス王朝支配の間)、コリントス西ヨーロッパラテン諸国との絹の交易によって繁栄した。しかしその富はルッジェーロ2世治下シチリアノルマン人注意惹き1147年略奪されることとなった

※この「東ローマ帝国時代」の解説は、「コリントス」の解説の一部です。
「東ローマ帝国時代」を含む「コリントス」の記事については、「コリントス」の概要を参照ください。


東ローマ帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 19:54 UTC 版)

ギリシャ人」の記事における「東ローマ帝国時代」の解説

東ローマ帝国時代のギリシャ人は、他のキリスト教徒諸民族からはもっぱらギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は、ローマ帝国市民としての自意識持ち、ロマイオイ(ギリシア語: Ρωμαίοι ローマ人 中世現代ギリシア語ではロメイ)と自称しており、「ヘレネス(エリネス)」は古代異教徒、あるいは地方都市農村住民のことをさしていた。212年アントニヌス勅令によってローマ市民権ローマ帝国内の自由人与えられていたからである。古代ローマ時代のことを「父祖時代」と呼び古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民末裔であることを誇りにしていたのである例えば、10世紀東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、その著書テマ起源について』の中で、ヘラクレイオス朝時代(610-711)に帝国公用語ラテン語からギリシャ語改められたことを「父たちの、ローマ人言葉捨てた」と表現している。 その一方で東ローマ帝国知識人階層においてはホメロスの詩を暗唱できるのが常識とされ、中等教育では古典ギリシャ語の文法教えられるなどされたように古代ギリシャ古典文化尊重されていた。 特に、東ローマ帝国末期パレオロゴス王朝期には、ギリシャ古典文化大い見直され復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期ギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国ギリシャ人一部は、ヴェネツィア共和国によるペロポネソス半島キプロス島クレタ島などの支配1453年コンスタンティノープルの陥落影響次第イタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期古典復興大い貢献したと言われる西ヨーロッパ渡ったギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。 この時代ギリシャ人について、日本世界史教育で「東ローマ帝国によるギリシャ人支配」と表現されることが多いが、東ローマ帝国時代は皇帝高級官僚コンスタンティノープル総主教など支配階級多くギリシャ人によって占められていた史実鑑みると、その表現妥当性欠いている。 また、1821年ギリシャ独立によって、ギリシャ人は約2000年ぶりに独立回復した」というような表現をされることも多いが、おそらく古代ギリシャからずっとギリシャ人政治的に主権を持つ時代がなかったと決めつけるために生まれる、不正確な表現であるといわなくてはならない実際は、オスマン帝国からの支配から数えれば正確に368年ぶりの独立である。駐日ギリシャ大使館サイトでも、東ローマ時代ギリシャ人歴史一部として扱っている。 さらに一部教科書には、東ローマ帝国における「皇帝教皇主義」の説明として、東ローマ皇帝コンスタンティノープル総主教同一人物あるかのごとき表現散見されるが、両者ははっきりと別人であり、東ローマ帝国時代には総主教皇帝摂政相談役であったり、さらには両者のあいだには何度反目軋轢生じたことさえあった。 「ビザンティン・ハーモニー」も参照

※この「東ローマ帝国時代」の解説は、「ギリシャ人」の解説の一部です。
「東ローマ帝国時代」を含む「ギリシャ人」の記事については、「ギリシャ人」の概要を参照ください。


東ローマ帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:02 UTC 版)

パルミラ」の記事における「東ローマ帝国時代」の解説

東ローマ帝国ビザンティン帝国)の時代5世紀頃になるとベル神殿、それにバールシャミン神殿英語版)はキリスト教会転用され、また、バールシャミン神殿の西約150メートルの場所には、その5-6世紀頃に資材再利用して建設され2つキリスト教会の跡がある。5世紀末から6世紀にかけて東ローマ帝国同盟関係持ったガッサーン族(英語版)(ガッサーン朝〈ジャフナ朝、Jafnids〉)のアラブ系王朝が、5-6世紀シリア砂漠支配していた。その宮廷アラビア詩人ナービガ(英語版)(アル=ナービガー=アル=ドビアーニ)は、ジン神霊)がパルミラタドモル)を建設した伝えたことにより、後の1348年初頭イブン・バットゥータバグダードからダマスカスに向かう途中パルミラ訪れた際、ジン築いたというナービガの詩を引用している。皇帝ユスティニアヌス1世在位527-565年)の時代にはパルミラ周壁英語版)が補強されている。

※この「東ローマ帝国時代」の解説は、「パルミラ」の解説の一部です。
「東ローマ帝国時代」を含む「パルミラ」の記事については、「パルミラ」の概要を参照ください。


東ローマ(ビザンツ)帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)

ギリシャの歴史」の記事における「東ローマビザンツ帝国時代」の解説

詳細は「東ローマ帝国」および「東ローマ帝国支配下のギリシャ」を参照 395年ローマ帝国東西分裂しギリシャ東ローマ帝国コンスタンティノープル旧称ビュザンティオンから後世ビザンツ帝国」・「ビザンティン帝国」と呼ばれる。正式国号は「ローマ帝国」のまま)の勢力範囲収まったビザンツ帝国コンスタンティノープル首都としたことや6世紀奪回したラテン語圏の西方領土7世紀入ってからイスラーム帝国侵攻などによって失われギリシャ語圏のみが領土大半となったために文化的にギリシャ化しはじめ7世紀には帝国公用語ギリシャ語となったビザンツ帝国公用語ギリシャ語になって以来事実上ビザンツ帝国ギリシャ人国家となったビザンツ帝国西ローマ帝国のようなゲルマン民族の大移動による影響最小限済んだが、6世紀以降スラブ民族侵入定住9世紀にはアラブ人侵入10世紀後半ブルガリア人攻撃など、初期においては内憂外患悩まされた。しかし11世紀初頭皇帝バシレイオス2世の元、ビザンツ帝国東ヨーロッパ平定すると、東方キリスト教文化各所に至ることとなり、テッサロニキアギア・ソフィア聖堂アテネ近郊ダフニ修道院でこの一端残っている。

※この「東ローマ(ビザンツ)帝国時代」の解説は、「ギリシャの歴史」の解説の一部です。
「東ローマ(ビザンツ)帝国時代」を含む「ギリシャの歴史」の記事については、「ギリシャの歴史」の概要を参照ください。


東ローマ帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 06:16 UTC 版)

アエギュプトゥス」の記事における「東ローマ帝国時代」の解説

コンスタンティヌス1世治世に、ローマ帝国新し首都としてコンスタンティノポリス建設された。そして4世紀のうちに帝国東西2つ分裂しアエギュプトゥスコンスタンティノポリス首都とする東ローマ帝国含まれることになった東ローマ帝国は、7世紀に入ると公用語ラテン語からギリシア語変わった。また392年ローマ皇帝テオドシウス1世キリスト教国教定めた影響により、キリスト教以外の異教は完全に駆逐された。古代エジプト司祭消えヒエログリフ神聖文字)を読める者はいなくなり異教寺院教会改築されたり放置され砂漠化したりした。 古代ローマ後期以降旧来のグレコ・ローマン風土薄れるにつれ、ローマ帝国政治体制東方サーサーン朝などの影響見られるようになっていった。市民権利を持つギリシア流の政治制度形骸化し新しい名前が付いた官職多くは、地主階級一族世襲となったアレクサンドリア帝国の第2の大都市として繁栄し一方で宗教上の論争暴動の面でも中心であったユダヤ人多くキリスト教徒殺害する事件起きて、それに反発したアレクサンドリア教会キュリロス暴徒と共に町の長官掛け合いアレクサンドリアからユダヤ人追放させた(415年)。哲学者ヒュパティアキリスト教徒異教徒として殺されたが、これによって古代ギリシアから受け継がれる学問は、アエギュプトゥスでは途絶えた。他にも教会分裂原因とする内紛延々と続き、そのために帝国中でもアエギュプトゥス異質な存在となった。 また宗教的に、「イエス・キリスト人性神性二つを持つか、一つしか持たないか」を論点にして新し論争巻き起こった当時キリスト教では、これは帝国二分するような大問題に発展した381年第1コンスタンティノポリス公会議の後、アエギュプトゥスでは単性説主張盛んになったが、451年カルケドン公会議両性説採用される至った単性論者はこの決定納得できず、自分達は正教派と同じ立場とっているのに誤解されていて、カルケドン公会議決定政治的になされたものだと主張したこの後アエギュプトゥスシュリア属州では単性論者が隠れ潜んで正統派抵抗し、その抗争570年代鎮圧されるまで続いた

※この「東ローマ帝国時代」の解説は、「アエギュプトゥス」の解説の一部です。
「東ローマ帝国時代」を含む「アエギュプトゥス」の記事については、「アエギュプトゥス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東ローマ帝国時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東ローマ帝国時代」の関連用語

1
アンマン デジタル大辞泉
100% |||||

2
ケリビア デジタル大辞泉
90% |||||

3
シリフケ城 デジタル大辞泉
90% |||||

4
Kadikoy デジタル大辞泉
70% |||||

5
Kizil Avlu デジタル大辞泉
70% |||||

6
Selcuk デジタル大辞泉
70% |||||

7
Yilankale デジタル大辞泉
70% |||||

8
イスパルタ デジタル大辞泉
70% |||||

9
エン‐アブダット デジタル大辞泉
70% |||||

10
カスル‐リビア デジタル大辞泉
70% |||||

東ローマ帝国時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東ローマ帝国時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコリントス (改訂履歴)、ギリシャ人 (改訂履歴)、パルミラ (改訂履歴)、ギリシャの歴史 (改訂履歴)、アエギュプトゥス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS