東京外国語学校 (旧制)
東京外国語学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 19:47 UTC 版)
「外国語学校 (明治初期)」の記事における「東京外国語学校」の解説
詳細は「東京外国語学校 (旧制)」を参照 1873年(明治6年)8月設立。安政3年(1856年)設置の幕府蕃書調所を源流とする大学南校を改編した開成学校のうち、「語学課程」を分離、これに加え「外国語学所」(文部省管轄)・「独逸学教場」(外務省管轄)などを統合し設立された。当初は英・仏・独・清・魯(露)の5語学科を設置していたが、1874年12月にはこのうち英語科が「東京英語学校」(後述)として独立、その一方で外務省「韓語学所」を統合し、朝鮮語学科を新設した(1880年)。 しかし1885年には独・仏語学科が東京大学予備門に移管されたため3語学科(清・魯・韓)になり、同年東京商業学校に事実上併合されて旧外語学校は同校の「第三部」(のち語学部)となった。翌1886年語学部は廃止され、1899年の復活まで東京外国語学校の命脈は一時途絶えることとなった。
※この「東京外国語学校」の解説は、「外国語学校 (明治初期)」の解説の一部です。
「東京外国語学校」を含む「外国語学校 (明治初期)」の記事については、「外国語学校 (明治初期)」の概要を参照ください。
東京外国語学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 09:42 UTC 版)
明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった。 1874年(明治7年)外国語学所が廃止、東京外国語学校が設立されると、独逸語学下等第一級に配属され、和田垣謙三、木場貞長、河本重次郎、猪子止戈之助等と共にヴィトコウスキーに語学、ハンゼンに歴史・数学を学んだ。 1876年(明治9年)1月12日雇教員、9月5日教諭補となったが、1877年(明治10年)3月独逸部生徒は東京大学医学部に移されたため、3月10日解任され、11月2日大蔵省紙幣局彫刻部訳官となり、ドイツでの明治通宝製作に関与した。1879年(明治11年)11月22日退職し、11月26日東京外国語学校雇教員に復帰した。
※この「東京外国語学校」の解説は、「吉田謙次郎」の解説の一部です。
「東京外国語学校」を含む「吉田謙次郎」の記事については、「吉田謙次郎」の概要を参照ください。
- 東京外国語学校のページへのリンク