とうきょう‐にちにちしんぶん〔トウキヤウ‐〕【東京日日新聞】
東京日日新聞
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東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号、および毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。共に略称は「東日」(とうにち)。
注釈
- ^ 現在の東京都台東区柳橋1-13
- ^ 現在の東京都千代田区有楽町1-12-1
- ^ この天文館は1951年(昭和26年)、ラジオ東京(現在のTBSラジオ)のスタジオに転用された。
- ^ 一例として第一次上海事変中に敵陣に突入爆破した日本兵士を爆弾三勇士と称して勇者とし、歌まで作成して煽った。
- ^ 大阪発祥の「スポーツニッポン」の東京進出は1950年3月。
- ^ 大阪毎日新聞社が時事新報社を合併したのではなく、同社より営業権を購入した。なお、時事新報の合同先はあくまで東日のみであり、大毎は対象外とされた。このため、時事新報社が大阪で発行していた『大阪時事新報』は戦時統制で、産経新聞の前身である夕刊大阪新聞に合同することになる。
出典
- ^ a b c d e 『東京日日新聞』 - コトバンク
- ^ 「同誌の廃せられてのち、明治十六年七月官報創始に至る迄約七年間は政府の官報公布期間は存せず(官報の前身『太政官日誌』)」。内閣印刷局[『内閣印刷局七十年史』]、1943年。国立国会図書館。
- ^ 内相と警視総監の辞職を勧告『東京朝日新聞』昭和3年5月1日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p332 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 貴族院本会議で緊急質問『東京日日新聞』昭和3年5月2日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p332)
- ^ 衆院予算総会でも政府を追及『中外商業新報』昭和3年5月2日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p333)
- ^ 有田所署長は引責辞職『東京日日新聞』昭和3年5月18日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p333)
- ^ 後藤基治『日米開戦をスクープした男』(新人物文庫、2009年)に詳しい。
- 1 東京日日新聞とは
- 2 東京日日新聞の概要
- 3 概要
- 4 紙齢
- 5 発行所の変遷
- 6 脚注
東京日日新聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:13 UTC 版)
吟香は1873年、東京日日新聞に招かれて主筆に就任する。当時の東京日日新聞の発行部数は2000部ほどであったが、吟香の執筆した記事が評判を呼び、部数も増加する(翌1874年時点で8500部)。しかし吟香は東京日日新聞の更なる発展を見据え、創刊者の1人である條野伝平のかつての上司・福地源一郎を呼び寄せて主筆の座を譲っている。 吟香は日本初の従軍記者でもあった。台湾出兵に従軍し、戦況と台湾の風土を連載したが、これが日本における従軍記者の嚆矢だったのである(尚この連載時、東京日日新聞の部数は15,000に達した)。 その後も吟香は明治天皇の巡幸の様子を記した「東北御巡幸記」を連載するなど健筆を振るったが、1877年に退社、以後新聞界との関わりを絶つ。
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東京日日新聞
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日刊紙「東京日日新聞」を元に作成された錦絵版「東京日日新聞」 版元:絵草子屋「具足屋」福田嘉兵衛 絵師:落合芳幾 文章筆者:高畠藍泉、条野伝平、西田伝助、岡田治助など 赤い枠と天使の枠飾りを特徴とする。他の錦絵新聞がこの天使の意匠を流用している場合が少なからずある。 芳幾は写実的な画風で、錦絵の空白部分に直接詞書きを置く画賛のような書き方であった。
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