東富田村とは? わかりやすく解説

東富田村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 07:10 UTC 版)

東富田村(ひがしとんだむら)は、和歌山県西牟婁郡にあった。現在の白浜町の北西部、富田川の河口左岸から紀勢本線椿駅の周辺にかけての区域にあたる。


  1. ^ 香田徹也「昭和15年(1940年)林政・民有林」『日本近代林政年表 1867-2009』p420 日本林業調査会 2011年 全国書誌番号:22018608


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東富田村

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富田六郷」の記事における「東富田村」の解説

江戸期1889年明治22年)の名。枝郷富田一色村松原村天ヶ須賀村があるが、郷帳類ではいずれも東富田村とは別に村高記載されている。実際に分村していた。村高397石。他に431石。1829年文政12年)の家数386軒、人口1943人、庄屋広谷三郎医者馬場貞達、馬場順達の名前が記述されている。寺院真言宗高田派蓮光寺正泉寺曹洞宗長興寺があり、長興寺722年養老6年泰澄創建で、1545年天文14年)に、南部甲斐守が菩提所として再建した記述されている。鎮守は若一権現鳥出神社)と八幡宮1601年慶長6年東海道開通して1604年慶長9年西富田村との境界付近に東海道富田の一里塚設置された。東海道桑名宿四日市宿中間位置して間の宿立場)と呼ばれた街道筋には旅籠軒を並べて店頭では名物富田の焼き蛤販売された。 1889年明治22年)の戸数800軒・人口3904人、田37町余、畑4町余、宅地13町余。1780年安永9年)の大火後伊勢湾海岸地域移住した東富田村民は漁業営み江戸後期から漁村として栄えた鰹節問屋繁栄して富田行商人の名が聞かれた。沿岸漁業明治時代に船数106隻、漁家210漁民1151人。漁業発達富田水産株会社大字東富田本町開業海産問屋開業して富田漁業組合設立された。水産加工業者が増加して煮干・素乾いわしなどの生産盛んになる魚介類はカタクチイワシ・コウナゴ・スズキ・シラス・富田の焼き蛤ハマグリであった国道1号線境界浜地区(水産業地域)・高地区(商工業地域)に2分される。1966年昭和41年)に一部富田1丁目~富田4丁目・富州原町松原町となり、残余東富田町となる。

※この「東富田村」の解説は、「富田六郷」の解説の一部です。
「東富田村」を含む「富田六郷」の記事については、「富田六郷」の概要を参照ください。

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