とうじ‐ひゃくごうもんじょ〔‐ヒヤクガフモンジヨ〕【東寺百合文書】
東寺百合文書
読み方:トウジヒャクゴウモンショ(toujihyakugoumonsho)
東寺百合文書(二万七千六十七通)
東寺百合文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:29 UTC 版)
東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)は、東寺の宝蔵に伝わった文書群である。宝蔵伝来の文書は一部が西院霊宝蔵に移され、京都大学に譲渡されたもの(教王護国寺文書)もあるが、大部分は京都府立総合資料館(現:京都府立京都学・歴彩館)の保管となっている。同館保管の24,067通は、1997年に国宝に指定されている。世界記憶遺産の推薦対象となり、2015年10月10日に登録が決定した。 江戸時代に入るまでは、東寺文書は革袋や様々な箱に入れられて保管されていた。貞享2年(1685年)に加賀藩藩主前田綱紀が東寺文書の書写を行った際に謝礼として、文書の目録を作成し、なおかつ平仮名・片仮名それぞれのいろは順と「京」の字が付けられた桐箱100合を製作・収納して東寺に返還したと伝えられている。しかし、現存の桐箱が94合であること、そもそも平仮名・片仮名・「京」の総数が100合に満たないことから、加賀藩が100合納めたものが破損などで失われてしまったのか、それとも100を概数とみるべきか、謎とされていた。1997年、東寺宝物館で『東寺文書十万通の世界』展の開催に際し上島有らが調査した結果、前田綱紀の寄進した文書箱は元々93合であったこと、残り1合の文書箱は材質が異なり(モミ材)、後補であることが判明した。いずれにしても、この文書箱が100合あったとされたことから、これらの文書を「東寺百合文書」と称するようになった。 前田綱紀や松平定信・伴信友による書写事業は膨大な文書の一部を行ったにすぎず、明治19年(1886年)帝国大学臨時編年史編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)が京都府と共同で行った『大日本編年史』編纂事業(明治政府の修史事業を参照のこと)の一環としての東寺文書調査と『東寺古文書目録』作成の際にも、土地台帳や絵図、算用状などには関心が払われずに箱の底に打ち捨てられ、明治31年(1899年)に実施された影写本作成の際にも顧みられることはなかった。百合文書の全面的な目録作成が実施されたのは、京都府立総合資料館に移された後のことであり、この際にこれまで顧みられてこなかった約5,000通分も含めた目録の作り直し及び整理作業が実施され、昭和55年(1980年)までに『東寺百合文書目録』(全5巻)が発行された。平成9年(1997年)には国宝指定された。『大日本古文書 第10「東寺文書」』の公刊が、東京大学史料編纂所で続けられ、また並行し京都府立総合資料館(思文閣出版発行)による公刊も続けられている。『大日本古文書』は「い函」から順に平仮名函を翻刻し、京都府立総合資料館編『東寺百合文書』は「イ函」から順に片仮名函を翻刻している。平成26年(2014年)にウェブで、京都府立総合資料館が所蔵する本文書の画像約8万点の公開が開始された。 東寺が領する著名な荘園、例えば山城国乙訓郡の上久世荘・下久世荘、若狭国太良荘、播磨国矢野荘、丹波国大山荘、肥後国鹿子木荘などの経営に関する文書が長期的かつ継続的に保管されていることや、寺内の会議の議事録である「供僧評定引付」が大量に保管されていることなど、古代・中世を中心とした大寺院の運営の実態を政治・経済・社会・宗教など各分野からの分析を可能にしている。
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