柳ヶ瀬線時代とは? わかりやすく解説

柳ヶ瀬線時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 19:31 UTC 版)

柳ヶ瀬線」の記事における「柳ヶ瀬線時代」の解説

支線となった柳ヶ瀬線は一閉塞区間となり、勾配区間用の気動車導入された。営業成績営業係数1145前後と非常に悪く早い段階廃止取り沙汰され、それに反対しての国会への存続陳情も度々行われた路線末期時点沿線人口は約5,800人、中ノ郷柳ケ瀬から木ノ本方面と、刀根疋田から敦賀方面への通勤通学輸送利用中心1日平均約1,500人の利用であった気動車化、駅員無配置化、運転方式簡素化貨物輸送集約不要財産撤去などの鉄道として最低限度運行にする合理化が行われてなお、約4000万円赤字計上していた。 先送りされていた、新線の上り線に対す勾配緩和するループ線工事1961年昭和36年になって再開された。新疋田 - 敦賀複線化するに際しては、新疋田から鳩原信号場従来線に合流して敦賀へ向かう線路下り専用となる。ここで柳ヶ瀬線運行継続するためには、巨額費用投じて柳ヶ瀬線用の別線路を敷設するのでない限り北陸本線下り線柳ヶ瀬線の上列車運転しなければならず、運転保安上の問題になるとともに北陸本線線路容量制約することになる。そこで1963年昭和38年9月30日新疋田 - 敦賀複線化完成した際に、敦賀 - 疋田間の柳ヶ瀬線休止となり、国鉄バス代行とされた。しかしこの措置により柳ヶ瀬線利用者はさらに激減することになった地元では、鳩原信号場 - 敦賀間の1線増設要求して柳ヶ瀬線存続求めたが、これには約5億円の経費掛かるとして国鉄側は難色示し廃止のための交渉継続された。こうして1964年昭和39年5月10日限り柳ヶ瀬線全線廃止し、翌5月11日より国鉄バスによる代行輸送開始された。 柳ヶ瀬トンネル敦賀ポータル残存していたかつての洞道西口駅ホーム跡もバス転換の際に撤去され、後に記念碑建てられた。

※この「柳ヶ瀬線時代」の解説は、「柳ヶ瀬線」の解説の一部です。
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