桃生城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 桃生城の意味・解説 

桃生城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 17:35 UTC 版)

桃生城(ものうじょう)は、古代の朝廷陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵


注釈

  1. ^ 高倉淳は、『封内風土記』(田辺希文1772)の日高見神社の条に「此地に大悲閣あり」とあり、大悲閣=大寺院が存在した可能性を指摘している[11]
  2. ^ 小野寺説に先立ち、1957年(昭和32年)に飯野川高校定時制桃生分校教諭(当時)の高倉淳が広域桃生城説の原形を作っている[11]
  3. ^ 桃生城の中枢部を西郭・中央郭・東郭とした場合、中央郭付近の地名は字「中山」であり、中央郭の遺称と考えられる。かつて、この地名から「中山柵」に擬定されたこともあるが、この地が「小田郡」であった根拠に乏しく、現在は斥けられている。

史料

  1. ^ 天平宝字二年冬十月甲子。発陸奥国浮浪人。造桃生城。既而復其調庸。便即占着。又浮宕之徒、貫為柵戸。
  2. ^ 天平宝字二年十二月丙午。徴発坂東騎兵。鎮兵。役夫。及夷俘等。造桃生城・小勝柵。 天平宝字三年九月庚寅。遷坂東八国。并越前。越中。能登。越後等四国浮浪人二千人。以為雄勝柵戸。及割留相摸。上総。下総。常陸。上野。武蔵。下野等七国所送軍士器仗。以貯雄勝・桃生二城。天平宝字三年九月己丑。勅。造陸奥国桃生城。出羽国雄勝城。所役郡司。軍毅。鎮兵。馬子。合八千一百八十人。従去春月至于秋季。既離郷土。不顧産業。朕毎念茲。情深矜憫。宜免今年所負人身挙税。始置出羽国雄勝。平鹿二郡。及玉野。避翼。平戈。横河。雄勝。助河。并陸奥国嶺基等駅家。
  3. ^ 然今陸奥国按察使兼鎮守将軍正五位下藤原恵美朝臣朝猟等。教導荒夷。馴従皇化。不労一戦。造成既畢。又於陸奥国牡鹿郡。跨大河凌峻嶺。作桃生柵。奪賊肝胆。眷言惟績。理応褒昇。宜擢朝猟。特授従四位下。陸奥介兼鎮守副将軍従五位上百済朝臣足人。出羽守従五位下小野朝臣竹良。出羽介正六位上百済王三忠。並進一階。鎮守軍監正六位上葛井連立足。出羽掾正六位上玉作金弓並授外従五位下。鎮守軍監従六位上大伴宿禰益立。不辞艱苦。自有再征之労。鎮守軍曹従八位上韓袁哲、弗難殺身。已有先入之勇。並進三階。自余従軍国郡司・軍毅、並進二階。但正六位上別給正税弐仟束。其軍士・蝦夷俘囚有功者。按察使簡定奏聞。
  4. ^ 宝亀五年七月壬戌。陸奥国言。海道蝦夷。忽発徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。但未知其相戦而所殺傷。 宝亀五年八月己巳。勅坂東八国曰。陸奥国如有告急。随国大小。差発援兵二千已下五百已上。且行且奏。務赴機要。 宝亀五年十月庚午。陸奥国遠山村者。地之険阻。夷俘所憑。歴代諸将。未嘗進討。而按察使大伴宿禰駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。
  5. ^ 宝亀六年十一月乙巳。遣使於陸奥国宣詔。夷俘等忽発逆心。侵桃生城。鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懐柔帰服。勤労之重。実合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十余人。従其功勲加賜位階。授正四位下大伴宿禰駿河麻呂正四位上勲三等。従五位上紀朝臣広純正五位下勲五等。従六位上百済王俊哲勲六等。余各有差。其功卑不及叙勲者。賜物有差。

出典

  1. ^ 『日本歴史地名大系第四巻 宮城県の地理』(平凡社、1987年7月10日発行)
  2. ^ a b 桃生町史編纂委員会1988『桃生町史』第2巻 資料編
  3. ^ 熊谷眞弓1895「陸奥桃生城之考」『奥羽史學会会報』1
  4. ^ 池内儀八1929「東北に於ける上古の城柵遺蹟」『東北文化研究』第2巻第1号 東北帝國大學法文学部奥羽史料調査部編輯
  5. ^ 大類伸1930「桃生城址」『宮城縣史蹟名勝天然記念物調査報告』第5輯、宮城縣史蹟名勝天然記念物調査會、1-6頁
  6. ^ 伊東信雄1957「古代史」『宮城県史』第1巻
  7. ^ 喜田貞吉1923「庄内と日高見(下)-日高見地方見聞録」『社会史研究』第9巻第2号
  8. ^ 高橋富雄1963『蝦夷』日本歴史叢書2 吉川弘文館
  9. ^ 小野寺正人1969「桃生城」『石巻日々新聞』1月7日・8日号,石巻日々新聞社
  10. ^ 加藤孝1961「考古学上からみた桃生村内の古代遺跡」『桃生村史』附録 桃生村史編纂委員会
  11. ^ a b c 高倉淳桃生城と太田金山
  12. ^ 宮城県多賀城跡調査研究所 2002『桃生城跡Ⅹ』多賀城関連遺跡発掘調査研究所報告書第27 冊
  13. ^ 宮城県教育委員会 2005『角山遺跡』宮城県文化財調査報告書第200集
  14. ^ a b 宮城県教育委員会 2006『桃生城跡 細谷B遺跡』宮城県文化財調査報告書第205集
  15. ^ 宮城県教育委員会2003『新田東遺跡』宮城県文化財調査報告書第191集
  16. ^ 相原淳一・谷口宏充・千葉達朗2019「赤色立体地図・空撮写真からみた城柵官衙遺跡―宮城県石巻市桃生城跡・涌谷町日向館跡とその周辺―」『東北歴史博物館研究紀要』20
  17. ^ 宮城県多賀城跡調査研究所2010『多賀城跡―発掘調査のあゆみ2010-』 (PDF)


「桃生城」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「桃生城」の関連用語

桃生城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



桃生城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの桃生城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS