楷書
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楷の定義:「楷に定名無く、独り正書にのみ之を当てず。(中略)衛恒の『書勢』に云く「王次仲始めて楷法を作る」とは、是れ八分の楷と為すなり。又た云く「伯英下筆すれば必ず楷と為す」とは、則ち草の楷と為すなり。」(楷というのは楷書のみの名称ではなく定まったものがない。たとえば、王次仲の楷法といえば八分を指し、張芝の楷法は草書のことである)…『芸概』 「正書は静に居して以て動を治め、草書は動に居して以て静を治む。」(楷書は静けさの中に動きの感じられるものにし、草書は動きの中に静けさの感じられるものとする)…『芸概』 「書法は正書に備わり、溢れて行草と為る。未だ正書を能くせずして、行草を能くせんとするは、猶ほ未だ嘗て荘語せずして、輒ち放言するがごとし。是の道無きなり。」(楷書がうまく書けないのに行草をうまく書こうとするのは、まともな議論もしないで無責任なことを言うがごとしで、このような道理はない)…『東坡題跋』 「小楷を作すは須らく大力を用ひ、筆を柱し紙に著け、千金の鉄杖を以て地を柱するが如くすべし。」(小楷は、力を込めて直筆で書くべし)…『字訓』
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楷書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/21 14:35 UTC 版)
唐代の楷書を取り入れ、端整で秀麗な楷書は「芳翠流」といわれ今なお新鮮さを持って受け継がれている。時には鄭道昭風に、また時には六朝風と同一の書体で様々な作風で魅了した。代表作に「雄飛(大鵬一舉九萬里)」八尺作品があるが、現在所在不明である。
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楷書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
楷書は隷書からの変異であるが、行狎書や草書も隷書に影響を与え、後漢末から三国にかけての時代に楷書発生の要因となっている。新書体は速書きの需要から生まれる自然の変異であるが、当時の楷書・行書は現在の運筆法とはかなり異なり、相当に隷意が多いものである。なお漢の正体は隷書であるため、この補助として新しく生まれた楷書は後世、隷書または今隷と称していることが多々あるので注意を要する。
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楷書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:54 UTC 版)
楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年)戦国時代の燕の宰相であった楽毅の言行を、三国時代の魏の夏侯玄が論じたもので、羲之の小楷として第一位に置かれる。日本では光明皇后の臨書したものが正倉院宝物として遺されている。 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年)老子の養生訓で、羲之の小楷の中でも気韻が高い。真跡として唐に伝わったものは安史の乱で消失し、今日に見られるものは、これの臨模本を模刻したもので、宋の拓本を最古とする。 東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)漢の武帝に仕えた東方朔という奇人の画像の賛として書かれた。 孝女曹娥碑(こうじょそうがひ、『曹娥碑』とも) - 升平2年(358年)小楷の法帖。曹娥碑の建碑は後漢であり、後に王羲之がその碑を臨書したといわれ、末尾に「昇平(升平)二年」(358年)の年紀が見える。しかし、本帖は南宋になって初めて文献に出たもので、王羲之の書である確証はない。現存するのは、六朝人の手によるものと推測される臨模本(絹本、遼寧省博物館所蔵)と『筠清館帖』・『群玉堂帖』・『停雲館帖』・『三希堂法帖』などに刻入された拓本がある。建碑の由来は、後漢の上虞(現在の浙江省紹興市上虞区)の曹盱(そうく)という者が溺死し、その娘の曹娥が嘆き悲しみ、父を慕ってその場所に身を投げ、5日後に父の屍を抱いて浮かび上がったという事跡から、その曹娥の孝心を讃えて上虞の県長が邯鄲淳に撰文させ、建碑したというものである。 『楽毅論』(余清斎帖本、部分) 『黄庭経』(部分)
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楷書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:59 UTC 版)
真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、その蚕頭燕尾の楷法は、時代を代表する革新性をもっていた。彼は「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書がその特徴である。伝説では、顔真卿が貧しかった頃、屋根裏に染みた雨漏りの痕を見てこの書法を編み出したといわれている。叔父・顔元孫が編纂した「干禄字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多いが、その字形は当時標準とされた楷書とは異なり、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。これらの楷書は「顔体」(顔法、北魏流)とも呼ばれ、楷書の四大家の一人として後世に大きな影響を与えた。楷書作品には『顔氏家廟碑』、『麻姑仙壇記』、『多宝塔碑』、『顔勤礼碑』などがある。
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