樹病学の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 17:06 UTC 版)
日本国内では病害としての記事が少なく、大部分が肉眼で認められる病原体の本草学的記述に限られており、樹病は植物界に於ける奇妙な現象としてしか捉えられていなかった。 一方で、近世の樹病研究はドイツで発展した。1866年、ハインリヒ・モーリッツ・ヴィルコム(英語版)は樹病に関する著書『Die mikroskopischen Feinde des Waldes』を世に出している。 アルバート・ベルンハルト・フランクは1880年、著書『Die Krankheiten der Pflanzen』の中で樹病に触れた。樹病学は1882年にロベルト・ハルティヒの著書『Lehrbuch der Baumkrankheiten』で植物病理学から分科され学問的体系付けがなされた。ハルティヒはそれ以前にも林木の重要病害や木材腐朽現象に関して著述しており、ハーバート・ハイス・ウェッツェル(英語版)は後にハルティヒを「樹病学の父」と呼んでいる。 明治の樹病研究は病原の決定とその名称を明らかにする分類と同定の時代である。日本では、文明開化期に入ると植物病理学が輸入される。1882年3月発行の大日本山林会会誌の質疑応答欄に「樹木ノ病ヲ醫スル法ヲ問」と書かれた記事が存在し、人体医学と関連付けた抽象的な樹病と病原との因果関係が最初に論ぜられた。これは解説記事であったが、樹病に関する学術論文は1888年に田中延次郎の書いた「あをき つばき やぶにくけいの葉に黑き斑點を形成する菌の形狀の比較及び其發生」が日本で最初である。当時の論文の多くは縦書きで平仮名ではなく片仮名を使う漢文訓読調の文語体であったが、この論文は横書きで平仮名を用いて話し言葉に近い平易な口語で書かれた。
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