歌学
歌論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:27 UTC 版)
『しらべの直路』 『千代の古道』 以上のうち、歌論の二つは師匠の景樹から学んだ説に影響して刊行された。
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歌論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)
国風文化の時代の和歌の隆盛は歌学の発展を促し、『古今和歌集』の紀貫之「仮名序」がその先駆けをなすといわれ、藤原公任の『新撰髄脳』などの自覚的な著作もあらわれるに至ったが、院政期に入ると、永久3年(1115年)に源俊頼によって『俊頼髄脳』、保元3年(1158年)に藤原清輔によって『袋草紙』が書かれている。なお、「髄脳」とは「和歌の本質を説いた書物」の意であり、歌論書を示す普通名詞である。
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歌論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
鎌倉時代には歌に対する批評意識が高まって歌学(歌論)の分野が確立した。御子左家 より出た藤原俊成は1197年(建久8年)、『古来風躰集』を著し、和歌の本質や和歌の歴史、和歌表現の変遷などについて述べ、特に「幽玄」の美学を唱えた。 歌学を大成したのは俊成の子で、「妖艶」「有心」の境地をめざした藤原定家であった。定家の歌論書『近代秀歌』は1209年(承元3年)の成立で、源実朝に贈った詠歌のための指導書である。最初に和歌史を概説し、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて」と心得を述べ、さらに源経信以下6人の和歌約25首を例歌として掲げている。定家の歌論書として他に添削形式で叙述した『毎月抄』がある。 上述のように、定家以降の和歌は形式化の傾向が著しくなった。定家の子為家は歌学よりも自家の地位を宮中での交遊で高めることに努力をはらったため、歌学は衰えた。こののち藤原為家の三子、為氏(二条家)・為教(京極家)・為相(冷泉家)は三家に分かれ、それぞれ歌学の家元となり、互いに正統を争った。 また、鴨長明は1221年(建暦元年)頃に『無名抄』を著して歌人の心得、和歌に関する故実・歌人の変遷などを記している。
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