正史の事跡とは? わかりやすく解説

正史の事跡

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羅憲」の記事における「正史の事跡」の解説

父は乱を避けて蜀に移住し広漢太守となった羅憲13歳にして文章良く書き早く学問で名を知られた。譙周師事し門人からは子貢如し称された。「性は厳正倦むことなく士を求め財産軽んじて施すことを好み利殖を営まなかった(性格極めて真面目で、積極的に才能のある人物求め財産他人に快く与え私腹を肥やす真似はしなかった。)」と評される。蜀に仕え劉禅即位時に太子舎人となり、ついで庶子尚書吏部郎に移った。宣信校尉として呉に使いすること二度、呉人から称賛された。 当時黄皓が蜀の実権握っていた。しかし羅憲黄皓に阿らなかったため、恨み買って巴東太守左遷され巴東都督していた閻宇副将となった。魏が蜀を討つ(蜀漢の滅亡)と閻宇召還されたため、羅憲永安守った成都陥落する永安要塞でも擾動が起こり、城を捨てて逃げ官吏多発した羅憲は「成都混乱している」と言った一人を斬り、民を安んじた劉禅降伏した事実を知ると、配下将兵伴い都亭に赴き、三日間喪に服した。呉は蜀の敗れた事を知ると、将軍盛憲派遣して西上させ、援軍を送ると見せかけ羅憲攻撃しようとした。羅憲は「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運関わることであるのに、呉は我が難を救わず、利益求め盟約違えようとする。既に漢は滅び、呉も永く保たれないであろうと言って巴東郡永安要塞堅守した。兵士たちがこの状況動揺していたため、鎧を繕い城壁修復し兵糧集め節義説いて激励したところ、みな命令従った。 呉の景元5年264年2月、魏の鍾会鄧艾死んだ事を知った孫休は、さらに撫軍将軍歩協差し向けた羅憲長江臨んでこれを弓を射掛け拒んだ防ぎきることができず、参軍楊宗囲み突破させ魏の安東将軍陳騫への使者として送り司馬昭に蜀から受け取った印綬と息子を人質として送ることで降伏の意を示して援軍要請した。その一方で歩協が城に攻めかかる出撃してその軍を大い破った孫休怒って鎮軍将軍陸抗征西将軍留平建平太守盛曼らに兵3与えて永安城をさらに囲ませた。およそ半年の間、魏の援軍至らず、また城内の者の大半疫病罹った。ある者が羅憲脱出の策を説いたが、羅憲は「人主とは民が仰ぎ見る者であり、危急臨んで民をよく安んぜず捨て去ることは、君子のなすところではない」として容れなかった。司馬昭胡烈援軍として派遣し陸抗らを退却させた。司馬昭羅憲に旧職を委ね、陵江将軍任命し万年亭侯に封じた折りしも武陵郡の四県が呉に叛いたため、羅憲武陵太守巴東監軍となった泰始元年265年)に西鄂県侯に封ぜられた。妻子洛陽に住まわせ、子の羅襲は給事中任命された。翌2年266年)に入朝し、冠軍将軍・仮節に昇進した泰始4年268年)、司馬炎武帝)の詔に応じて陳寿始め、常忌・杜軫寿良・高軌・呂雅・許国・費恭・諸葛京・陳裕ら蜀漢旧臣推挙した羅憲推挙した者たちは、みな西晋に採り立てられた。羅憲入朝後、呉の武陵太守孫恢が南浦攻め込んできた。安蛮護軍羅憲参軍であった楊宗がこれを討ち敗走させた。これにより羅憲楊宗武陵太守にするように上表した。また任地に還って、南浦駐屯し武陵蛮を呼応させて三県とその民を得た。呉の巫城も攻略し、呉を討つ策を進言した。泰始6年270年)に死去し、使持節安南将軍贈られ西鄂侯に追封、烈侯と諡された。子の羅襲が父の私兵受け継ぎ、陵江将軍となったが、早く亡くなり広漢太守追贈された。孫の羅徽は、順陽内史となったが、永嘉五年(312年)晋に反乱起こした王如によって殺された。兄の牂牁郡太守である羅式の子羅尚は晋の散騎常侍都督二州諸軍事にまでのぼった

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王忠」の記事における「正史の事跡」の解説

若い頃は亭長をつとめていた。三輔混乱すると、王忠飢え苦しんで人肉食したその後、衆を率いて武関に向かったが、当時荊州割拠していた婁圭帰属することを望まず、これを攻撃し撃ち破った。そして千人余りの軍を率いて曹操帰属した。 王忠曹操征討付き従い中郎将・揚武将軍・軽車将軍歴任し、都亭侯に封じられている。 建安4年199年)、徐州車冑殺害し叛逆した劉備を、曹操の命により劉岱と共に討伐した。しかし劉備降すことはできなかった。建安18年213年)、魏公への任命受諾するよう曹操促す文書に、王忠名を連ねている。

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管亥」の記事における「正史の事跡」の解説

初平2年192年)頃、黄巾軍討伐のために都昌進軍して来た北海郡孔融逆に包囲した。しかしこの時、孔融に母の世話をしてもらっていた太史慈が、恩を返そう孔融の下に馳せ参じた太史慈は、武勇策略管亥包囲突破し平原郡劉備救援要請した劉備直ち精鋭兵3千を救援差し向けたため、管亥軍は散り散りに潰走した。その後史書に名は見当たらない

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韓胤」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名韓胤 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 197年建安2年) 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁術 家族・一族不詳袁術配下建安2年197年)、帝を僭称した袁術呂布との同盟考え韓胤使者として派遣した韓胤は、袁術が帝を僭称した経緯呂布説明しあわせて呂布の娘を袁術の子の嫁に迎え入れたいと申し入れた当初呂布はこれに応じて娘を送り出した。しかし、呂布袁術同盟恐れ陳珪が「袁術同盟してならない」と呂布説得したため、ついに呂布はその説得に従って娘を連れ戻し韓胤曹操引き渡してしまった。韓胤曹操の命により斬首され、許の市場梟首された。

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紀霊」の記事における「正史の事跡」の解説

袁術配下『三国志』魏書呂布伝によると、建安元年196年)、呂布劉備から下邳奪ったため、劉備呂布降って小沛に駐屯した。それを見た袁術は、紀霊に3の軍を率いさせ、劉備攻撃させた。 呂布は、袁術がもし劉備滅ぼしたならば、臧覇らと結んで自分包囲しようと企むであろう見抜き紀霊劉備仲裁出た呂布紀霊対し地面挿した戟の小枝(胡)に矢を射当てたら軍を引き揚げよ」と申し渡し、見事そこに矢を射当てた紀霊約束により止むを得ず兵を引いたが、その後の動向不明である。

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韓猛」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名韓猛(または韓荀韓若時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁紹 家族・一族不詳袁紹配下曹操軍荀攸の評によれば韓猛は「向こう意気強くて敵を軽んじる男」ということであった建安5年200年)の官渡の戦いで、曹操軍西方交通遮断するよう袁紹から命じられたが、雞洛山で曹仁撃破された。さらに、袁紹軍兵糧運搬警護する役目担ったが、荀攸計略により徐晃史渙『三国志』諸夏侯曹伝によると、曹仁も)に妨害され輸送車焼き払われた。その後史書記述見当たらない

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李利」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名李利 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地涼州北地郡泥陽県現在の甘粛省慶陽市寧県職官不詳爵位・号等- 陣営所属等李傕 家族・一族叔父李傕兄弟李暹従兄弟?〕従弟式(李傕の子)、胡封(おばの子従叔父李応李傕従弟興平元年194年3月李利李傕同僚である樊稠郭汜と共に馬騰内応して反乱起こした中郎将稟、侍中馬宇らを槐里攻め滅ぼし馬騰韓遂連合軍長平観で撃破した。しかし、樊稠同郷友人である韓遂陳倉まで追い詰めながらも見逃し談笑して別れた。この現場目撃した李利は、事の次第李傕密告する。そのため李傕は、会議称して樊稠呼び出しその場粛清したという(『三国志』魏書董卓伝注『九州春秋』)。 しかし樊稠の死は、実際には約1年後興平2年195年2月である。『後漢書』董卓伝の本伝にも記述があることから、李利密告自体事実だが、樊稠粛清直接の原因になったとは考えにくい。樊稠勇猛果敢衆望厚かったため、李傕から恐れられていたことが、より大きな原因思われる『後漢書』董卓伝注『献帝紀』)。 この件を最後に李利史書から姿を消す

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蒯良」の記事における「正史の事跡」の解説

劉表荊州刺史として赴任した際、蒯越蔡瑁と共に招かれ服従しない豪族への対処法について相談された。これに蒯良が「仁愛信義をもって人民労わるように」と進言したが、一方蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表蒯良進言を「(仁義尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」と評価したが、最終的に蒯越進言の方を採り、荊州統一した『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、蒯良その後(恐らく曹操仕え吏部尚書にまでなった。

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魏続」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名魏続 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等呂布曹操 家族・一族不詳呂布配下呂布縁戚関係にあったことから重用された。呂布高順疎んじるうになると、呂布高順の兵を魏続率いさせ、魏続の兵を高順率いさせている。 建安3年198年12月呂布曹操猛攻遭って下邳城に追いつめられると、同僚宋憲侯成らと共謀して陳宮捕縛し曹操寝返った。これが契機となって下邳落城し、呂布軍滅亡した呂布滅亡後史書魏続の名は見当たらない

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何儀」の記事における「正史の事跡」の解説

黄巾の乱鎮圧された後も、汝南郡潁川郡において、同じく頭目である劉辟黄邵・何曼らと共に数万軍勢擁していた。しかし一時は、袁術孫堅配下になっていたという。建安元年196年2月曹操はこの黄巾軍討伐して撃破成功し劉辟黄邵らを斬った。何儀部下と共に曹操軍降伏したその後事跡不明である。

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麹義」の記事における「正史の事跡」の解説

最初韓馥部将だったが、これを裏切って袁紹仕えた麴義出身地と見られる涼州は、北方民族侵入などで戦乱が多い地域だった。麴義羌族戦法を身につけていたため、配下兵卒勇猛だったという。初平元年190年)、袁紹反逆した於夫羅を鄴の南で撃ち破り、その精強ぶりを示した初平3年192年)、公孫瓚との界戦いでは、麴義先鋒として構えた兵士八百人と一千張の強弩隊を率い公孫瓚が誇る精鋭騎馬隊撃破した麴義はさらに追撃して公孫瓚軍の厳綱を斬り公孫瓚本陣落とした上で騎兵隊囲まれ窮地陥った袁紹救出して勝利貢献した初平4年193年)に劉虞殺されると、その子劉和劉虞旧臣鮮于輔協力して公孫瓚への更なる追撃行なった興平2年195年)には幽州丘で公孫瓚破り本拠地易京追い込んだ。 しかしここから公孫瓚は、堅城易京長期籠城戦持ち込もうとした。麴義軍は1年余り対峙の末に兵糧尽きてしまい、そこを公孫瓚逆襲されて大敗した一方で、界戦い等の功績いいことに、軍令無視など次第傲慢な態度目に付き始めていたこともあって、遂に袁紹から殺害されてしまった。没年は、建安元年196年)から建安3年198年)の間ということしか分からない麴義配下の残軍は、公孫瓚支援を受けるなどして袁紹反抗したが、直ち殲滅されている。 『資治通鑑によれば麴義先祖前漢平原郡出身尚書令鞠譚であり、鞠譚は難を避けるために西平移りそこで姓を麴に改めたこのため、後に麴氏西平随一著名なとなった。また南宋書かれた『姓氏急就篇によれば韓遂殺害したとされる麴演は麴義同族であり、その後少なくとも宋代まで高官輩出し続けた名族であったとされる

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厳虎」の記事における「正史の事跡」の解説

呉郡豪族(「彊族」)で、同郡において1万人以上の勢力築き上げた。『古今図書集成』によると、長興県の南50里にある石城山根拠地とした。また、さらに10里南には白虎山があった。 呉書朱治伝」には「山賊厳白虎」と記されているが、これについて唐長孺魏晋南北朝史論叢』では、「山賊」は「山越」と同義であるとして、厳虎山越族長であった主張している。 建安元年196年)、江東地盤築いた孫策厳虎王朗討伐乗り出した部将呉景先に厳虎を討つよう進言したが、孫策群盗に過ぎないとして、王朗撃破優先したその後厳虎海西呉郡太守自称する陳瑀提携すると、孫策もいよいよ攻撃乗り出した厳虎は弟の厳輿和睦使者として送ったが、その場殺されてしまったために意気喪失し余杭にいた許昭の下に落ち延びたこの際程普孫策に許昭の攻撃申し出たが、孫策は許昭の人となり評価して攻撃を許さなかった。一方陳瑀も、呂範らの攻撃を受け敗走している。 以降厳虎消息については、孫策劉勲攻めた際に、陳登厳虎残党扇動して孫策を襲わせたとの記録がある。孫策襲撃退けたが、厳虎がどうなったかは記されていない(「孫破討逆伝」が引く『江表伝』)。

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蘇由」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名蘇由 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁尚 家族・一族不詳袁尚配下建安9年204年2月袁尚命令審配と共に鄴を守備したが、曹操軍接近してくると、これに内応しようと謀った。しかし事前に露見したため、鄴城内審配市街戦繰り広げた挙げ句に、敗れて曹操の下に逃げ込んだその後蘇由行方不明である。

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孫観」の記事における「正史の事跡」の解説

孫観に関する記述は、同伝の注に引く『魏書』の内容が最も詳しい。 臧覇と共に挙兵し陶謙に従って黄巾賊討伐したことで、騎都尉任命された。その後呉敦尹礼と共に臧覇指導者仰ぎ開陽駐屯した。建安3年198年)、曹操呂布を滅ぼすと、先に降っていた臧覇招請を受け、孫観も兄らと共に曹操配下となる。臧覇琅邪国相に任命されると、孫観北海太守、兄も城陽太守それぞれ任命されるという厚遇受けた孫観臧覇と共に徐州青州賊討伐従事し、常に先陣切って戦うことで臧覇に次ぐ功績挙げ呂都亭侯に任命された。建安10年205年)春、曹操南皮袁譚攻略した際には、臧覇と共に自身の子弟を人質として鄴に住まわせたことで、偏将軍任命され青州刺史異動となった。濡須口で孫権討伐した際には、仮節を授けられた。孫権との戦い最中流れ矢左足負傷したが、力戦奮闘曹操賞賛慰労受けた。この軍功により振威将軍となったが、矢傷重さから、まもなく死去した

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閻象」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名閻象 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官主簿 爵位・号等- 陣営所属等袁術 家族・一族不詳袁術配下主簿『後漢書』袁術伝・『三国志』魏書袁術伝にのみ記述がある。 興平2年195年)冬、袁術皇帝僭称しようと部下に諮ったとき、誰も答える者が無い中、閻象1人その面前進み出て「周の文王天下3分の2支配しながらも殷の臣下であり続けた」と、故事引用し漢王朝健在である以上まだその時期ではない」と諌めた袁術不機嫌な表情見せながらも、この時点では閻象進言受け入れている。これ以後閻象史書見当たらない結局袁術は、天の意思を示す瑞兆があったとして、建安2年197年)に皇帝僭称した。

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雷薄」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名雷薄 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地揚州廬江郡? 職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁術→〔独立勢力家族・一族不詳袁術配下。しかし建安4年199年)までには、僚友陳蘭と共に出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もった。後に没落した袁術頼ってきたが、受け入れ拒絶している。『三国志』魏書袁術伝の注に引く『呉書』によると、この後まもなく、袁術一行食料絶えて餓死した以後雷薄の名は史書現れない。しかし、同姓雷緒という人物がおり、陳蘭行動を共にしているため、潘眉『三国志考証』巻三は「雷薄劉馥伝ハ雷緒ニ作ル」とし、雷薄雷緒同一人物主張する

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トウ龍」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名鄧龍 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等劉表 家族・一族不詳劉表配下建安11年206年)、黄祖命令により、鄧龍数千人の軍を率いて孫権領の柴桑攻撃した。しかし、孫権軍周瑜から反撃受けて敗れ敗走時に追撃され捕虜となった捕虜にされた後は、揚州呉郡護送されてしまった。その後消息不明

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成廉」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名成廉 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等呂布 家族・一族不詳呂布側近武人呂布長安から追われた後、袁紹と共に常山張燕戦った。この時の呂布は、僅か数十騎で1日3・4回も張燕本陣突撃行ったが、成廉魏越は常に呂布傍らにあったという。このような戦い振り10日余り続けた末、ついに張燕の軍を撃破した建安3年198年10月下邳曹操との野戦参戦したが、呂布軍敗北し成廉捕虜にされた。これ以降成廉に関する記述見当たらない史書での成廉記述断片的だが、『後漢書』呂布伝では「健将」・『三国志』魏書呂布伝では「驍将と書かれ、いずれも勇将ないしは猛将意味する表現が冠せられている。

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陳就」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名陳就 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 208年建安13年) 字・別号不詳出身地不詳職官都督 爵位・号等- 陣営所属等劉表 家族・一族不詳劉表軍の黄祖配下都督地位在り水軍率いた建安13年208年)、孫権軍勢江夏攻撃して来ると、陳就黄祖から先鋒命じられ孫権軍迎撃した。しかし、孫権軍先鋒呂蒙猛攻前に敗北し、その首級を獲られてしまう。 陳就の死を聞いた黄祖慌てて江夏城を捨てて逃亡したが、孫権軍追撃受けて討ち取られ、ここに黄祖勢力はついに滅亡した

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荀諶」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名荀諶 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号友若(字) 本貫出身地豫州潁川郡潁陰職官参謀袁紹爵位・号等- 陣営所属等袁紹 家族・一族父:荀緄 兄:荀衍弟:荀彧 子:荀閎 袁紹配下初平2年191年)、袁紹の命により、張導高幹郭図と共に使者として冀州韓馥の下に赴く荀諶巧み弁舌振るって韓馥説得し冀州袁紹に譲らせた。建安4年199年)には、田豊許攸と共に袁紹参謀任命される。 しかし、袁紹陣営これほど重要人物ありながら以降史書一切登場しない陳羣汝南潁川人物について孔融論評した際の「荀彧荀攸・荀衍・荀諶荀悦は、現代まったく匹敵する者がいない」という発言が残るのみである。ただ、子の荀閎は魏に仕官していることから、最後まで曹操対立する道はとらなかったと思われる

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張勲 (後漢)」の記事における「正史の事跡」の解説

袁術配下『三国志』呉書孫策伝によると、孫策袁術身を寄せていた時、張勲はまだ20歳前後孫策高く評価し、心惹かれていたという。 初平4年193年3月袁術揚州刺史陳温殺害し陳温については病死とする記録あり)、陳瑀追放して揚州拠点を移すと、橋蕤と共に大将軍任じられとされる建安2年197年)春、袁術帝位僭称した際にも、これに従った袁術皇帝僭称後まもなく、張勲袁術命令橋蕤と共に徐州呂布攻撃した。しかし、陳珪離間策により友軍楊奉韓暹裏切られ橋蕤生け捕られるという大敗喫した同年9月張勲袁術に従って陳国侵攻し、陳愍王の劉寵明帝後裔)とその相の駱俊殺した。 しかし、曹操が自ら袁術討伐に来ると、袁術橋蕤諸将その場に留まらせ、自分だけ淮南逃げ帰ってしまった。『後漢書』袁術伝によると、張勲もやはり橋蕤と共に陳国残留したとされるいずれにしても橋蕤らが曹操軍迎撃して尽く討ち取られたが、張勲だけは何とか袁術の下に逃げ帰った建安4年199年6月袁術没落して死亡した後、張勲楊弘とともに以前仲のよかった孫策の下に逃れようとした。しかしその道中で、袁術の元部下であった廬江太守劉勲攻撃され捕らえられた。その後彼についての記述『三国志』にも『後漢書』にも残されていない

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張英 (後漢)」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名張英 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等劉繇 家族・一族不詳劉繇配下張英長江当利口に駐屯し同じく横江津に駐屯する同僚樊能于糜連動して勢力拡張企む袁術備えていた。袁術は、揚州刺史の恵衢・丹陽太守呉景丹陽都尉孫賁らを派遣して劉繇攻撃させたが、張英劉繇武将たちの防御厚く数年経って撃破出来なかった。 しかし興平元年194年)、呉景らを孫策救援すると、戦況一変する孫策は、呉景らが数年かかって攻略できなかった張英らを瞬く間撃破し劉繇丹徒追い落とした。これ以後張英の名は史書見当たらない

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劉先」の記事における「正史の事跡」の解説

劉表配下博学強記老荘の学を好み漢代故実通じていた。劉表から荊州別駕任じられた。 官渡の戦いが起こると、劉表大将蒯越従事中郎韓嵩と共に曹操への降伏劉表説いたが、受け入れられなかった。 建安13年208年)、曹操荊州支配すると、劉先招聘された。劉先漢王朝健在時に尚書令任命され、のちに魏国尚書令任命されている。以上の事跡のみからでは、劉先単なる降伏主義者でしか無いように見えるが、『零陵先賢伝』によれば彼の真価物語る以下のような逸話もある。 劉表配下であったとき、劉先劉表使者として曹操会見する機会があった。「劉表殿は(献帝のいる許に来ず)どうして郊外で天を祀られたのか」と曹操が問うと、「凶悪な者どもに道を阻まれいるからです」と劉先答えた。「凶悪な者どもとは何か」と曹操が問うと、「眼に映るものが全てそうです」と劉先平然と答えた。「私には大軍がある。服従しないものなどない」と曹操がさらに答えると、「軍事力頼り残忍な行為をする者は、現代蚩尤智伯でしかありません」と劉先非難した曹操不機嫌に黙り込んだが、劉先武陵太守任命したその後劉先出世は、むしろ曹操度量物語逸話となっている。またこの逸話は、結末こそ全く異なるが、『三国志演義』において劉璋配下張松曹操対面した際の逸話の元の一つである。

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厳綱」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名厳綱 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 192年初平3年) 字・別号不詳出身地不詳職官冀州刺史 爵位・号等- 陣営所属等公孫瓚 家族・一族不詳公孫瓚配下初平2年191年以降公孫瓚従弟勃海太守公孫範活躍もあって、袁紹をも凌ぐ程に河北勢力拡大していた。この時、公孫瓚田楷青州刺史に、単経兗州刺史任命したが、同時に厳綱冀州刺史任命されている。 初平3年192年)、厳綱公孫瓚従い袁紹軍との界戦い加わったが、袁紹軍勇将麴義前に敗れて戦死した生け捕られた後、処刑されたとも言われる)。

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厳輿」の記事における「正史の事跡」の解説

『三国志』本文中には記述がなく、裴松之が注として引用している『呉録』にのみ記述がある。 建安元年196年)、厳虎孫策攻めてきた際に城の防備固め同時に厳輿派遣して和平求めた会談中に孫策は剣を抜いて席を切った厳輿恐れおののくと、孫策は「あなたがとても素早く座った状態から飛び上がることができると聞いたので、からかっただけだ」と言った厳輿は「私は剣を見るとそうなる」と答えたところ、孫策から戟を投げつけられ避けられずに死んだ武勇優れていた厳輿死んだことで厳虎の軍は動揺し、まもなく孫策打ち破られた。

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薛礼」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名薛礼 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 195年建安2年)? 字・別号不詳出身地不詳職官彭城国爵位・号等- 陣営所属等独立勢力〕→劉繇 家族・一族不詳彭城国の相であったが、徐州牧の陶謙圧迫受けたため、興平元年194年)には笮融と共に揚州刺史劉繇盟主仰いでいた。薛礼秣陵城(後の呉の都、建業)を守備していたが、孫策攻撃屈したため包囲突破して逃走した薛礼劉繇孫策敗れて豫章へ向かうとこれに従ったが、その途中で劉繇叛旗翻した笮融殺害された。死亡年は、豫章激し戦乱起きた建安2年195年)と思われる

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張顗」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名張顗 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁尚曹操 家族・一族不詳袁尚配下。「大将」と表記される同僚馬延よりも格下の将、あるいは馬延副将であろうか。張顗の名が『三国志』魏書武帝紀にしか見当たらないのに対し馬延の名は他にも『三国志』魏書袁紹伝や『後漢書』袁紹伝に散見される建安9年204年)、鄴を守備する審配救援するため、袁尚に従って曹操軍戦ったが、敗北積み重ねたこのため袁尚降伏使者曹操送った。しかし曹操には全く容れられなかったため、ついに張顗馬延曹操降伏することにした。このことで袁尚軍勢総崩れとなり、中山郡敗走したその後張顗の名は史書見当たらない

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張音」の記事における「正史の事跡」の解説

延康元年220年11月献帝曹丕帝位譲ろうとし、御史大夫兼ねた太常張音に節を持たせて漢帝の璽綬を曹丕届けさせた。 以降去就不明である。

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眭固」の記事における「正史の事跡」の解説

眭固当初黒山軍(黒山賊)の部将頭目であった初平2年191年)に于毒白繞と共に10軍勢魏郡攻略東郡太守の王肱を撃ち破った。しかし、翌年曹操率い討伐軍に敗北した。 後に、河内郡根拠とする張楊仕えた建安3年198年11月呂布支援していた張楊を、眭固同僚であった楊醜謀反して殺害し曹操味方しようとした眭固楊醜殺害して主君の仇を討ったその後張楊の元の長史薛洪河内太守繆尚らの支持獲得し張楊後継者として擁立された。この事からも、眭固それなりに人望厚く指導者としての素質富んだ人物だったことが窺える。 翌4年199年)春、眭固薛洪繆尚射犬聚河内郡野王県)を守らせ、自らは北進して袁紹合流、その救援受けようとした。しかし眭固途中城において、史渙曹仁于禁楽進徐晃曹操軍攻撃を受け戦死した。その残軍は曹操軍取り込まれる事となり、射薛洪繆尚曹操軍董昭説得受けて降伏した。 なお、『三国志』魏書張楊伝注に引く『典略によれば巫女眭固の字である白兎根拠地の射名称についてと兎の関係から相性悪く凶兆である、と警告したという。しかし眭固はこれを無視し結局戦死した、としている。 小説『三国志演義』でも登場する。しかし直接描写無く呂布包囲していた曹操の下に、上記張楊楊醜暗殺事情伝えられ曹操眭固討伐命じるのみである。

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呉敦」の記事における「正史の事跡」の解説

臧覇開陽独立勢力立ち上げると、呉敦孫観尹礼と共にその配下となった建安3年198年)、曹操呂布攻撃すると、臧覇に従って呂布支援した呂布滅亡すると、臧覇と共に曹操降伏する臧覇琅邪国相に任命されると、呉敦利城太守任命されるという厚遇受けた。しかしその後呉敦の名は史書見当たらない

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黄邵」の記事における「正史の事跡」の解説

『三国志』魏書武帝紀に名が見える。それによると、何儀劉辟・何曼らとともに黄巾賊一党として汝南郡潁川郡根拠とし、それぞれ数万軍勢率い初め袁術、のち孫堅服属していたという。建安元年196年2月曹操黄巾軍征伐に来ると、黄邵曹操軍夜襲をかけたが、于禁の軍から逆襲を受け、戦死した生き残った何儀らは曹操降伏した

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耿武」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名耿武 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 191年初平2年) 字・別号文威(字) 出身地不詳職官長史 爵位・号等- 陣営所属等韓馥 家族・一族不詳韓馥配下長史初平2年191年)、韓馥袁紹冀州入り打診されると、耿武閔純李歴沮授と共にそれを拒否するよう諌めた。しかし韓馥聞かず袁紹迎え入れてしまった。 袁紹冀州入りして韓馥面談した際には、他の同僚たち韓馥見捨てて逃げ去る中、閔純と共に韓馥傍らで剣を構え、他の袁紹兵士たち立ち入るのを拒んだ。これを見た袁紹は、後に密かに部下田豊指図し耿武閔純暗殺させた。果たしその後袁紹冀州奪われ韓馥も、失意のうちに自殺した

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李暹」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名李暹 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地涼州北地郡泥陽県現在の甘粛省慶陽市寧県職官不詳爵位・号等- 陣営所属等李傕 家族・一族叔父李傕兄弟李利従兄弟?〕従弟式(李傕の子)、胡封(おばの子従叔父李応李傕従弟興平2年195年4月李傕は、郭汜献帝手中にしようとしているのを知り李暹派遣して自らの陣営迎え入れさせた。この際に、宮殿からの献帝移動太尉楊彪異論唱えたが、李暹一切気に留めることなく献帝御車乗せて李傕の陣に護送した。この件を最後に李暹史書から姿を消す

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薛蘭」の記事における「正史の事跡」の解説

興平元年194年)、呂布張邈らの協力得て曹操から兗州大部分奪い取って兗州牧を称したとき、薛蘭呂布配下兗州別駕従事史として史書見える。別駕従事史は、州牧(または州刺史)に属す最高級副官幕僚であり、薛蘭呂布陣営において高位人物であった事が窺える。 まもなく薛蘭は、兗州治中従事史の李封と共に李乾李典従父)を招聘して謀叛誘ったが、李乾拒絶したため殺害した興平2年195年)夏、薛蘭李封山陽郡鉅野県に駐屯していたが、李乾の子である李整曹操軍攻撃を受け、呂布2人救援しようとしたかなわず薛蘭李封敗北して曹操に斬られた。 また、『後漢書』張倹伝)によると、後漢名士張倹同郷人を集めて謀叛企んでいるとでっち上げられる事件があり、その謀反人中には薛蘭の名も見える。これを同一人物仮定すると、薛蘭山陽郡高平県人となる

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趙弘」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名趙弘 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 184年中平元年) 字・別号不詳出身地不詳職官黄巾軍指揮官爵位・号等- 陣営所属等張角 家族・一族不詳中平元年184年)、南陽黄巾軍張曼成配下として宛城籠り官軍朱儁らと対峙した。張曼成南陽太守秦頡によって戦死すると、趙弘張曼成の後を継いで指揮官となり、黄巾軍まとめて宛城立て籠もった。官軍包囲数ヶ月耐えるが、更迭の噂に焦った朱儁急遽攻撃されたことで戦死する

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韓暹」の記事における「正史の事跡」の解説

当初河東郡白波軍(白波賊・河東黄巾党)の頭領で、黄巾の乱の時は黄巾軍呼応して各地暴れ回ったと言われている。仲間頭領には、李楽胡才がいて、李傕配下楊奉かつては白波であった興平2年195年)、献帝長安から脱出した時、李傕郭汜両名追撃遭ったが、楊奉董承から招聘され韓暹は、李楽胡才とも協力し献帝護衛した同年12月洛陽へ途上安邑で、献帝から征東将軍任じられた(『三国志』魏書董卓伝による。『後漢書』董卓伝によると、この時に征東将軍任命されたのは胡才である)。 建安元年196年7月無事に献帝守り抜いて洛陽入城し翌月にはその功績から大将軍の位を授与された。だが、韓暹得た官位いいことに、仲間部下盗賊達を好き勝手に官職任命したため、董承対立したという。やがて、献帝曹操の元で庇護を受けるようになると、正統性喪失した韓暹楊奉と共に定陵方面略奪を働かざるを得なくなり、そこを曹操軍に衝かれて撃破された。このため韓暹楊奉と共に袁術の下へ落ち延び、その部将となった建安2年197年)、袁術呂布討伐に従うが、呂布の命を受けた陳珪から好条件を餌として説得されると、楊奉と共に呂布軍へ寝帰った。また袁術軍将軍十数名を斬り殺す活躍見せ、これを撃ち破った彼の最期史書大きく食い違いがあり、実態はまった不明である。『三国志』魏書董卓伝によると『曹操献帝迎えた後に揚州徐州の間に逃亡しそこで略奪繰り広げたため劉備殺された』 同蜀書先主伝によると『呂布徐州奪われた後に海西駐屯し劉備によって揚州徐州略奪繰り広げていたところを攻撃され斬られた』と記録されているがこれらは建安元年(196年)のことであり前述袁術との戦い参加したという建安二年の記録矛盾する(この記録『三国志』魏書呂布伝による)。 前述董卓に付けられた英雄記によると楊奉劉備会見の場で斬られると、韓暹逃亡し旧友沛郡杼秋県屯帥(県尉)でもある張宣の討伐を受け、殺害され、その首級劉備の下に届けられたという。これが建安二年以降のことであるとすると、呂布争って小沛に逃れていた劉備呂布従った両者がなぜ豫州まで赴き面会したのかという謎が残る。

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李楽」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名李楽 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官白波軍部将〕→征北将軍 爵位・号等- 陣営所属等独立勢力〕→楊奉→〔独立勢力家族・一族不詳〕 元々は、韓暹胡才と共に河東白波軍(白波賊)の指揮官頭目であった興平2年195年)、李傕郭汜の乱において、献帝長安脱出して洛陽向かった際に、董承楊奉(楊も、元は白波指揮官)は白波軍を招請する。李楽は、韓暹胡才と共にこれに応じ李傕郭汜追撃から献帝護衛したこの際李楽は、董承と共に献帝左右に侍しかがり火をたいて渡河先導をするなど、比較活躍が目立つ。洛陽へ途上献帝安邑を仮の都とした際に、李楽は征北将軍任命されている。建安元年196年7月献帝洛陽入城した。 しかし献帝洛陽入城後には、李楽胡才と共に河東引き返している。その後時期不明だが、李楽河東駐留中に病死した。

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牛輔」の記事における「正史の事跡」の解説

董卓中央権力を掌握すると、その姻族ということ重用され時期不明だ中郎将任じられている。初平元年190年2月董卓献帝擁して長安遷都したとき、牛輔は陝に駐屯して東方備えた。なお、この時に李傕郭汜張済らが牛輔指揮下に加わっている。 初平3年192年正月牛輔李傕郭汜張済命じ中牟朱儁を破らせた。さらに、陳留郡潁川郡諸県攻略させ、略奪殺戮誘拐を行わせた。 同年4月董卓王允らによって殺害された後、董卓一族であるということ牛輔討伐対象とされた。それでも、王允送り出した李粛率い討伐軍を撃退するなど、激しく抗戦した。しかし、まもなく配下の部隊恐慌状態になったため、牛輔全軍反乱起こした思い込んでしまった。最後は、城を脱け出し逃亡しようしたものの、褒賞に目が眩んだ部下攴胡赤児裏切られ殺された。

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胡軫」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名胡軫 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号文才(字) 本貫出身地涼州 職官陳郡太守→大督護→司隷校尉 爵位・号等- 陣営所属等董卓王允李傕 家族・一族不詳董卓配下最初陳郡太守任じられた。初平2年191年)、孫堅董卓攻撃するために陽人まで進攻してくると、胡軫は大督護に、呂布も騎督に任命されて、ともにこれを迎撃した。胡軫武勇には秀でていたが、傲慢なうえ短気であったため、部下からの信頼薄く、また呂布との仲も悪かった。そのため胡軫軍は戦闘可能な状態にならず、華雄討ち取られるなどして、孫堅軍敗北喫した陽人の戦い)。 翌3年192年董卓死後胡軫王允の命により徐栄楊定と共に李傕討伐向かった。しかし胡軫楊定は、王允傲慢な態度反感抱いていたため、率先して李傕降ってしまった。 なお、盧弼三国志集解』によると、『三国志』魏書張既伝注に引く『三輔決録注』にあげられている司隷校尉胡軫も、同一人物記されている。胡軫着任中にかねてから仲が悪かった馮翊郡の功曹の游殷(游楚の父)を、冤罪処刑した。しかしその後一ヶ月余りして、胡軫病気罹り「私が悪うございました」と譫言口走りながら死亡してしまった。胡軫の死を聞いて人々は游殷を褒め称えたという。

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胡才」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名胡才 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官白波指揮官〕→征西将軍征東将軍?) 爵位・号等- 陣営所属等独立勢力〕→楊奉→〔独立勢力家族・一族不詳最初は、李楽韓暹と共に河東白波軍(白波賊)の指揮官頭目であった。なお、李傕配下楊奉も、元は白波軍の同僚である。 興平2年195年)、 李傕郭汜乱の影響で、献帝長安脱出して洛陽向かった際、董承楊奉白波軍を護衛として招請した。胡才も、李楽韓暹と共にこれに応じ李傕郭汜追撃から献帝護衛した洛陽へ途上で、献帝安邑を仮の都と定めた際には、胡才将軍任命されている(『後漢書』董卓列伝によれば征東将軍『三国志』董卓によれば征西将軍後者によると、韓暹征東将軍任命されている)。建安元年196年7月献帝洛陽入城した。 しかし献帝洛陽入城後に、胡才李楽と共に河東引き返した河東引き返した後、胡才怨恨が元で殺害された。 小説『三国志演義』でも史実同様に胡才楊奉招請に応じて献帝護衛している。しかし、洛陽へ向かう途中李傕郭汜追撃を受け、戦死してしまっている。

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華雄」の記事における「正史の事跡」の解説

華雄事跡は、『三国志』呉書孫堅伝にしか見当たらない初平2年191年)、華雄呂布と共に胡軫配下として従軍し孫堅討伐赴いた。しかし胡軫呂布の仲が悪く呂布偽りの通達行なって胡軫惑乱させたため、勝利を得られなかった。華雄陽人の戦い戦死し、その首級孫堅の手により梟首とされた。

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樊稠」の記事における「正史の事跡」の解説

董卓配下董卓死後の初平3年192年6月長安占拠し王允らを粛清した後、李傕らと共謀して献帝擁立した同年9月右将軍万年侯となる。以後李傕郭汜と共に朝政壟断した。 興平元年194年3月馬騰韓遂李傕に背くと、樊稠郭汜李利と共にこれを討伐した。まず、馬騰内応して反乱起こした中郎将稟や、侍中の馬宇らを槐里攻め滅ぼし馬騰韓遂連合軍長平観において撃破した。この時に樊稠は、韓遂陳倉追い詰めながらも、同郷の友であることから見逃し、さらに談笑して別れた。この場面李利目撃して李傕密告したため、李傕樊稠猜疑心抱き始めた同年8月には、馮翊羌族反乱したため、樊稠郭汜協力して、これを撃ち破った。しかし、まもなく李傕指導者間で権力争い勃発し興平2年195年2月樊稠李傕殺害されてしまった。 なお、樊稠最期については2説ある。『三国志』董卓伝注に引く『九州春秋によれば上記李利密告原因で、内通疑った李傕会議席上殺されたとある。一方『後漢書』董卓伝注に引く『献帝紀』によると、李傕樊稠勇猛果敢部下からの人望が厚いことを恐れ樊稠が酒に酔ったところを配下騎都尉であった胡封暗殺させたという。いずれにしても西涼軍を撃退できる力量持った同僚内紛葬り去ったことで、李傕はかえって自滅の道を辿ることになった

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皇甫酈」の記事における「正史の事跡」の解説

中平5年188年)、并州となった董卓皇甫嵩に軍を委ねるようにとの詔勅届いたが、董卓はこれを拒否していた。この時に皇甫酈は、詔勅に逆らう董卓討ち取るよう皇甫嵩進言した。しかし皇甫嵩事の次第朝廷上奏するとどめた結果董卓皇甫嵩への憎悪募らせ、後に皇甫嵩殺害しようとした。 興平2年195年)、謁者僕射となっていた皇甫酈は、使者として有能であったことから、献帝の命で李傕郭汜争い調停するよう命じられた。皇甫酈は、郭汜説得することには成功したものの、李傕説得することは出来ず李傕怒り買ってしまった。 皇甫酈献帝の下に戻って李傕不敬な態度報告したが、その際李傕取り入っていた侍中の胡邈と言い争いになった献帝は、胡邈の讒言により皇甫酈李傕害されるのを恐れ、彼を直ち逃亡させた。果たして、李傕虎賁近衛兵)の王昌皇甫酈暗殺命じたが、皇甫酈正しい人と知っていた王昌故意にこれを見逃したその後皇甫酈の名は史書見当らない

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劉磐」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名劉磐 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地兗州山陽郡高平県 職官不詳爵位・号等- 陣営所属等劉表 家族・一族従父劉表従兄弟劉琦劉琮劉脩劉虎 劉表配下荊州勇猛な武将として知られ長沙郡守備していた。江東孫策からも警戒されていたという。このため孫策は、太史慈建昌都尉任命して劉磐対抗させた。劉磐何度侵攻したが、太史慈統治能力高かったため、侵攻差し控えるようになったその後劉表から黄忠と共に長沙攸県守備任された。劉表没後曹操荊州支配するうになると、劉磐流浪将軍となり、長沙西安諸県蹂躙したという。以降行方不明である。

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王楷」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名王楷 読みピンインおうかい 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地等〔不詳職官従事中郎 爵位・号等- 陣営所属等曹操呂布 家族・一族不詳最初曹操配下で、従事中郎に任命されていた。 興平元年194年)、曹操陶謙討伐するため徐州出征した王楷はこの隙をつき、張邈張超陳宮許汜と共に呂布迎え入れ曹操叛旗翻した。この時、兗州のほぼ全域呂布一派制圧されている。これ以降王楷呂布配下として活動することになった建安3年198年)冬、呂布曹操敗退し下邳城内追い詰められた。このため王楷許汜は、袁術元へ救援要請使者として赴いた。しかし前年呂布との対立経緯から、袁術援軍拒絶する姿勢示した王楷許汜は、呂布滅びれば次は袁術攻められる番であると説き伏せ呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術救援受諾させることに成功した。しかし、呂布曹操軍包囲突破できる状況になく、実際に袁術救援を得ることができなかった。 呂布滅亡後王楷の名は史書見当らない呂布命運を共にしたか、あるいは許汜様に他の諸侯頼ったかも不明である。

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正史の事跡

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劉辟」の記事における「正史の事跡」の解説

『三国志』魏書武帝紀に名がある黄巾の乱時の動静伝わっていないが、乱の終結後も汝南郡潁川郡において、何儀黄邵・何曼らと共にゲリラ的反乱活動継続しており、討伐軍と幾度となく衝突している。袁紹孫堅敵対し黄巾支持する民兵黄巾残党軍を率い反乱指揮した建安元年196年2月曹操追討受けて黄邵と共に斬られたと武帝紀に記録されているが、以降劉辟の名前が散見されるので誤記可能性が高い。曹操袁紹対立深め官渡の戦い起きた頃、劉辟汝南反乱成功させ、破竹の勢いで許を荒らした。更に許周辺諸城陥落させ、袁紹との決戦控えていた曹操背後脅かしたこの前後に劉辟袁紹への帰順表明し袁紹側に付いている。袁紹はこれを受け、劉備劉辟支援するよう命じ物資持たせて劉辟元へ向かわせた(「蜀書」先主伝)。 曹操にとって背後憂いとなっていた劉辟汝南黄巾軍対し曹操曹仁総大将とする精鋭軍を至急派遣したその後曹操差し向けた曹仁らの軍勢劉辟軍は撃破される。劉辟軍に参画していた劉備敗勢の中、かろうじて袁紹の下に逃げ帰ったこのように武帝紀・于禁伝など記述部位によって、劉辟記録大きく異なっている。同時代劉辟という名前の人物複数名いたか、または誤記なのかは謎が多く劉辟生死における真実不明瞭な点が多い。

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馬延」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名馬延 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官大将 爵位・号等- 陣営所属等袁尚曹操 家族・一族不詳袁尚配下建安9年204年)、鄴を守備する審配救援するため、袁尚従い曹操戦ったが、敗北積み重ねた袁尚降伏使者曹操送ったものの容れられず、遂には、馬延同僚張顗と共に曹操降伏してしまい、袁尚軍勢総崩れとなって中山敗走した史書記述これだけである。

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韓忠 (黄巾)」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名韓忠 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 184年中平元年) 字・別号不詳出身地不詳職官黄巾軍指揮官爵位・号等- 陣営所属等張角 家族・一族不詳中平元年184年)、張曼成配下として宛城籠り官軍朱儁らと対峙した。張曼成その後継者の趙弘相次いで朱儁らに討ち取られると、韓忠がさらにその後継者となって引き続き抵抗した。しかし朱儁用兵前に追い詰められ降伏しようとしたものの赦されず捕えられて、朱儁副将務めていた南陽太守秦頡処刑された。

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「楊密」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名楊密 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官中郎将 爵位・号等- 陣営所属等郭汜 家族・一族不詳『三国志』魏書董卓伝注に引く『漢書』にのみ、その記載がある人物郭汜配下興平2年195年)に中郎将地位にあったこの年李傕献帝手中に収めた後、公卿郭汜の下に派遣して講和させようとした。郭汜公卿1人楊彪助言求めたが、楊彪李傕郭汜2人批判したため、郭汜怒ってこれを斬ろうとした。しかし、楊密や他の郭汜側近諫止したので、ようやくその場収まったという。同様の場面『後漢書』董卓伝にもあるが、こちらでは楊密の名は現れない。 小説『三国志演義』にも登場し史実同様の行動とっている。

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李孚」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名李孚 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号子憲(字) 馮孚旧名本貫出身地冀州鉅鹿郡 職官主簿司隷校尉陽平太守 爵位・号等- 陣営所属等袁尚袁譚曹操 家族・一族不詳袁紹三男袁尚配下『三国志』魏書賈逵伝の注に引く『魏略』に記載がある。 袁紹建安7年202年)に死去した頃、李孚袁尚主簿として仕えた建安9年204年)、袁尚参謀別駕審配が鄴で曹操包囲され袁尚援軍に来たものの曹操軍包囲前に動けずにいた。この時、李孚は自ら志願して審配援軍到着知らせ使者となる。李孚は、たった3人の供だけを連れて曹操軍都督偽装し、曹操軍包囲通過して悠然と鄴城に入った。この余り鮮やかな突破劇に、審配軍は太鼓打ち鳴らして歳し、曹操苦笑いするばかりだったという。 入城し援軍到着知らせた後、さらに李孚は、糧食節約するためにも、城内老人子供白旗持たせて曹操軍降伏させるよう審配薦めた審配はそれに従い降伏実行されている間に李孚は鄴城を脱出して袁尚ところに無事帰還した。 しかし、袁尚曹操軍掃討前に敗退し李孚袁尚離れ離れになってしまったため、やむなくその兄の袁譚仕え平原赴任した建安10年205年)に袁譚滅亡すると、李孚曹操の下に出頭し曹操から全権承認してもらった上で平原城内混乱収拾した。 以後曹操仕えたが、当初讒言があって閑職任じられただけだったという。それでも次第昇進し70歳余りの頃には司隷校尉になったという。後、陽平太守在任中に死去した小説『三国志演義』でも、鄴城への侵入老人子供降伏までは描かれている。しかし、鄴城からの脱出以降記述無く曹操配下となったことにも触れられていない

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楊任」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名楊任 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 215年建安20年) 字・別号不詳出身地不詳職官- 爵位・号等- 陣営所属等張魯 家族・一族不詳張魯配下建安20年215年7月曹操張魯討伐のために陽安関を攻撃すると、楊任張衛楊昂と共に関を守備し一時曹操軍撃退した。しかし、曹操高祚らが率い別働隊命じて夜襲させたために、張魯軍は大敗し楊任戦死した小説『三国志演義』でも登場し楊昂と共に曹操軍迎撃するが、楊昂無謀な出撃原因敗退してしまう。汚名返上しよう再度出撃するが、夏侯淵渡り合って討ち取られている。

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李封」の記事における「正史の事跡」の解説

興平元年194年)、呂布張邈らの協力得て曹操から兗州大部分奪い取って兗州牧を称したとき、李封呂布配下兗州治中従事史として史書見える。治中従事史は、州牧(または州刺史)に附属して民政等を担当する幕僚副官であり、李封呂布陣営中でも高位人物であったことがうかがえる。 まもなく李封は、兗州別駕従事史の薛蘭と共に乗氏名士李乾曹操配下李典従父)を招聘して謀叛誘ったが、李乾拒絶したため殺害した興平2年195年)夏、薛蘭李封山陽郡鉅野県に駐屯していたが、李乾の子である李整曹操軍攻撃を受け、呂布2人救援しようとしたかなわず薛蘭李封敗北して曹操に斬られた。

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李豊 (後漢)」の記事における「正史の事跡」の解説

袁術配下建安2年197年9月曹操が自ら陳国進攻した袁術討伐すると、袁術橋蕤加え李豊梁綱楽就の3将を陳国残留させ(『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる)、自分だけ淮南逃げ帰った李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍迎撃したが、敗北して戦死した

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李乾」の記事における「正史の事跡」の解説

雄々しい気質有しており、食客数千家を擁して兗州済陰郡乗氏県にいた。 初平年間曹操付き従い初平3年192年)に寿張黄巾賊破った初平4年193年)の袁術攻撃徐州征伐にも従った興平元年194年)、張邈兗州諸将呂布招き入れて曹操反旗を翻すと、曹操李乾一族本拠地である乗氏県に帰し諸県慰労させた。李乾呂布の将である兗州別駕薛蘭兗州治中の李封から共に叛くよう促されたが、拒んだために殺害された。子の李整が兵を引き継いだ小説『三国志演義』には登場しない

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楊昂」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名楊昂 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官大将または将軍 爵位・号等- 陣営所属等張魯 家族・一族不詳張魯配下建安17年212年)、馬超涼州の隴上で再び蜂起した際に、楊昂張魯の命により馬超支援したこの年8月韋康馬超降伏すると、馬超楊昂命じて韋康殺害させている。その後楊昂張魯の下へ帰還した建安20年215年7月曹操張魯討伐のために陽安関を攻撃してくると、楊昂張衛楊任と共に関所守備し一時曹操軍撃退した。しかし、曹操高祚らが率い別働隊命じて夜襲させたため、張魯軍が大敗し楊任戦死したその後楊昂行方定かではない

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尹礼」の記事における「正史の事跡」の解説

元々は泰山付近独立した小勢力を有していた。臧覇開陽独立勢力立ち上げると、尹礼孫観呉敦と共にその配下となっている。 曹操呂布対立した際には、臧覇従い呂布味方をする。しかし、建安3年198年)に曹操呂布を滅ぼすと、臧覇と共に曹操降伏した臧覇琅邪国相に任命されると、尹礼東莞太守任命されるという厚遇受けたその後尹礼の名は史書現れない。 なお黄初3年222年)に、呉に侵攻した魏軍徐盛撃ち破られたが、このとき戦死した魏将に「尹盧」という人物がいる。これは、かつて「盧児」と渾名されていた尹礼指している可能性もある。

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楊琦」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名楊琦楊奇時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号公挺(公偉、公綽、子奇) 出身地司隷弘農郡華陰県 職官侍中汝南太守侍中衛尉 爵位・号等- 所属陣営霊帝献帝 家族・一族曾祖父:楊震祖父:楊牧、子:楊亮 侍中地位にあり、霊帝仕えた霊帝はあるとき楊琦対し「朕(自分)と桓帝比べるとその優劣はどうか」という質問をした。楊琦霊帝阿る回答をしなかったため、霊帝は不愉快となり「さすが楊震の子孫だけのことはある」と皮肉を言われたという。汝南太守転出となった霊帝没後中央戻り侍中衛尉任命され上で献帝仕え董卓主導長安遷都にも随行した興平2年195年)、献帝李傕により、宮殿から砦まで連れ去られていた。待遇悪く朝臣らは餓え苦しんだ献帝李傕対し朝臣らの分を含めた食料(米5石と牛の骨5頭分)を要望したが、李傕食料出し惜しみ腐った牛の骨だけを送るという無礼働いた献帝怒ったが、楊琦密封した文書献帝奉じ李傕行状今は耐えるべき旨を説いた献帝はこれを受け入れている(『献帝起居注』)。 楊琦鍾繇と共に李傕部曲である宋曄と楊昂離反させるのに功績があったという(『後漢書』楊震伝」)。 その後献帝李傕兵士利用して長安出発しようとしたところ、李傕対立する郭汜の兵に取り囲まれた。楊琦同僚侍中であったと共に献帝の姿を兵士たち見せ危地脱した(『献帝起居注』)。以降楊琦動静不明である。 献帝は後に曹操庇護受けて許に遷都すると、楊琦功績思い起こし、子を陽成亭侯に封じている。

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公孫越」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名公孫越 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 191年初平2年) 字・別号不詳本貫出身地幽州遼西郡令支県 職官不詳爵位・号等- 陣営所属等公孫瓚袁術 家族・一族一族公孫瓚従兄公孫範兄弟?,従兄弟?)公孫続公孫瓚の子初平2年191年)、袁術劉虞の子劉和配下とした。しかし、劉虞と仲が悪かった公孫瓚は、対抗手段として公孫越袁術の下に派遣し配下とさせ、また、密かに公孫越命じて劉和逮捕しよう目論んだ結局劉和逃亡し袁紹の下に逃れたため、公孫瓚劉虞の関係は更に悪化した同年袁紹陣営周昂『三国志』魏書公孫瓚伝。一方『後漢書』公孫瓚伝によると、周昕とされる)が陽城孫堅陣地奪った折りしも袁紹との関係が悪化していた袁術は、孫堅公孫越命じて周昂攻撃させた。しかしこの戦いで公孫越流れ矢に当たり死亡してしまった。公孫越の死は、公孫瓚袁紹への対決姿勢強めることにつながった

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李典」の記事における「正史の事跡」の解説

従父李乾曹操付き従って武功立てたが、兗州乱れた際に殺された。後を継いだ李整李乾の子)も亡くなると、李典潁川郡潁陰県令になり、中郎将となって李整の軍を率いた李典若いころ学問好み軍事は好きではなかった。先生について『春秋左氏伝』をはじめ多く書物親しんだ曹操はそれを好ましく思い試しに人民統治するにつけてみたという(『魏書』)。離狐郡の太守昇進した建安5年200年)の官渡の戦いでは、李典一族部下引き連れ食料や絹などを曹操軍輸送し供給した袁紹敗れると裨将軍任命され東平国の安民に駐屯した。 建安7年202年)、曹操黎陽袁譚袁尚攻撃した際、李典程昱とともに船で兵糧輸送した袁尚魏郡太守高蕃命じて水路遮断させていた。曹操はあらかじめ「船が通れないなら陸路を行くように」と命じていたが、李典は「高蕃の軍はよろいをつけた兵が少なく頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。軍は朝廷統御されず、国家利益になるならば専断許される速やかに攻撃すべきだ」と主張した程昱同意し高蕃急襲をかけて打ち破り水路回復させた。 劉備劉表の命で北進してまで来た時、曹操李典夏侯惇に従わせてこれを防がせた。退却した劉備夏侯惇追撃しようとしたが、李典は「敵が理由もなく退いたからには伏兵疑いがある。道は狭く草木は深いので追ってはいけない」と反対した。夏侯惇聞き入れず于禁従えて追撃し李典留守任されたが、夏侯惇伏兵により不利な状態に陥いった。李典救援駆けつける劉備はすぐに兵を引いた(『博望坡の戦い』)。 建安9年204年)、鄴の包囲参加した建安10年205年8月高幹壷関挙兵すると、楽進と共に討伐した。 建安11年206年8月海賊管承楽進と共に破り敗走させた。破将軍昇進し、都亭侯となったその後拠点としていた乗氏から三千家余り一族郎党魏郡の鄴に移住させた。移住することを願い出た時、曹操笑いながら「耿純にならうつもりか」とたずねた李典は頭を垂れ、「私はのろまで臆病、功績もわずかですのに厚い待遇受けておりますですので一族挙げて仕えるのは当然です。それに征伐はまだ終わっておりませんから、まず都の周辺充実させ、その勢いをもって四方制すべきと考えます耿純ならったわけではありません」と答えた。この行為曹操喜ばれ、破将軍昇進した建安13年208年)、曹操荊州征伐する際、于禁張遼張郃朱霊李典路招馮楷の7将軍は、章陵太守都督護軍となった趙儼統括された(「趙儼伝」)。 建安16年211年)、曹操関中馬超韓遂らと対峙した際、李典駐屯したとある(『水経注』)。 建安20年215年)の合肥の戦いの際、李典張遼楽進とともに千人余りの兵を連れて合肥駐屯していた。孫権十万の軍で城を包囲されると、張遼曹操命令奉じて出撃ようとした。しかし三人普段から不仲だったため、張遼は彼らが賛同しないことを恐れた李典慨然として「これは国家の大事であり、計略がどうであるかを顧みるだけだ。我々は個人的な恨みで公の道義忘れるべきではない」と言い張遼と共に孫権軍破って敗走させた。100戸の加増を受け300となった李典学問好み儒家やその思想を貴んだ。諸将功績争わず士大夫敬い慎み深く誠実であったので、軍中ではその長者ぶりを称えられた。 36歳逝去し、子の禎が後を継いだ曹丕文帝)が帝位に就くと、合肥功績思い起こし禎に100戸が加増され、さらに李典一子関内侯領邑100戸が与えられた。愍侯と諡された。 243年7月曹芳斉王)は詔勅下し曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典含まれている(『斉王紀』)。 陳寿は、李典儒者尊重し、義によって個人的な仲違い忘れたことを立派であると評している。

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鄧龍」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名鄧龍 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等劉表 家族・一族不詳劉表配下建安11年206年)、黄祖命令により、鄧龍数千人の軍を率いて孫権領の柴桑攻撃した。しかし、孫権軍周瑜から反撃受けて敗れ敗走時に追撃され捕虜となった捕虜にされた後は、揚州呉郡護送されてしまった。その後消息不明

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侯成」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名侯成 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官騎将 爵位・号等- 陣営所属等呂布曹操 家族・一族不詳呂布配下騎将史書記述断片的で、『後漢書』呂布伝や、『三国志』魏書呂布伝の注で引用されている『九州春秋』などに散見される。 ある時、侯成食客侯成所有する15頭の馬を奪い、小沛の劉備のもとに逃げ事件があった。これを聞いた侯成追いかけて馬を奪い返し同僚たちから祝賀された。またあるとき、侯成5、6石の酒を醸造し、さらに狩猟して10頭余の捕獲した。彼はそれらを同僚振る舞おうとを考え先に呂布5頭と醸造した五斗献上し将軍おかげで、私の馬を取り戻すことができ、諸将が私を祝いました。酒を醸造し狩りをして捕獲しました。まだ飲食はしておりませんので、将軍献上した次第でございます」と、その許可を得ようとした。しかし、呂布禁酒であったため激怒し「わし自らが禁酒令出しているというのに、汝は勝手に醸造し諸将とともに飲食して義兄弟契りを結び、共謀して反乱を起こすつもりなのか」と、侯成面罵した。これに恐怖憤懣抱き疑心暗鬼陥った侯成は、そのまま退出するなり酒と猪肉処分し諸将からの贈り物返した建安3年198年)、呂布曹操包囲され下邳城に立て籠ったとき、同僚魏続宋憲と共に反乱起こし陳宮捕縛し曹操軍寝返った。これが原因で、魏続宋憲捕縛され呂布曹操によって処刑された。 その後は、史書記述見当たらない

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高覧」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名高覧 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号別名:高奐 出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁紹曹操 家族・一族不詳袁紹配下正史では建安5年200年10月官渡の戦い烏巣攻撃向かった曹操留守衝くため、同僚張郃と共に曹操本陣攻撃仕掛けた。しかし、最終的に攻め落とせず、本陣守っていた曹洪降伏した記述はこれのみであり、張郃異なり曹操の下での活躍は全く無い。

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閔純」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名閔純 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 191年初平2年) 字・別号伯典(字) 出身地不詳職官冀州別駕 爵位・号等- 陣営所属等韓馥 家族・一族不詳韓馥配下別駕初平2年191年)、韓馥袁紹から冀州に入らせてほしいと打診された時、閔純耿武李歴沮授と共にそれを拒否するよう諌めた。しかし韓馥聞かず袁紹迎え入れてしまった。 袁紹冀州入りして韓馥面談した際には、他の同僚たち韓馥見捨てて逃げ去る中、耿武と共に韓馥傍らで剣を構え、他の袁紹兵士達立ち入るのを拒んだ。これを見た袁紹は、後に密かに部下田豊指図し耿武閔純暗殺させた。果たしその後袁紹冀州奪われ韓馥も、失意の内に自殺した

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宋憲」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名宋憲 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等呂布曹操 家族・一族不詳呂布配下建安3年198年12月呂布曹操攻められ下邳城に追い詰められた時、同僚魏続侯成共謀して呂布裏切り曹操軍城内招き入れた。このとき呂布軍陳宮生け捕りにしている。これにより呂布勢力滅亡した以後宋憲記述史書見当たらない

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鄧義」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名鄧義 読みピンインとうぎ〔Dèng Yì〕 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地荊州章陵職官荊州治中→侍中 爵位・号等- 陣営所属等劉表曹操 家族・一族不詳劉表配下の治中従事『後漢書』劉表伝は「侍中従事」としているが、「治中従事」の誤り思われる)。 建安元年196年)、曹操献帝を許に迎え入れると、鄧義劉表曹操同盟するよう進言した。しかし、この時点袁紹同盟していた劉表進言を容れず、しかも鄧義侮辱するような言動をした。鄧義病気口実辞職し劉表没するまで出仕しなかった。 建安13年208年)、曹操荊州支配すると、鄧義招聘され侍中任命された。これ以後史書記述見当たらない

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楊醜」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名楊醜 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 198年建安3年)? 字・別号不詳出身地不詳職官将〔張楊爵位・号等- 陣営所属等張楊 家族・一族不詳張楊配下主君張楊同郷の誼から呂布親友の仲にあり、建安3年198年)に呂布曹操猛攻によって徐州追いつめられたとき、張楊呂布救援しようとした建安3年198年11月楊醜謀反して張楊殺し、その首を曹操の手土産にしようとした。しかし、主君殺されたことに怒った同僚眭固によって、楊醜殺されてしまった。没年は同3年、あるいは翌4年199年)とも考えられる小説『三国志演義』では曹操への情報伝達で名前が出るのみである。

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正史の事跡

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王威」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名王威 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地等〔不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等劉琮 家族・一族不詳劉表の子劉琮仕えた曹操大軍率い荊州侵攻して来ると、劉琮戦わずして降伏し劉備逃走した。このとき王威は「曹操我が軍降し劉備退けたため、安心して備え緩めているに違いありません。私に兵数千を預けていただければ曹操捕虜にしてみせます曹操捕らえれば天下も夢ではありません」と劉琮申し出た。しかし、劉琮はこれを容れなかった。その後の王威の行方不明である。

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攴胡赤児」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名攴胡赤児 読みピンインほくこせきじ 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位- 陣営所属等牛輔 家族・一族不詳董卓軍牛輔側近。名前から判断すると、漢族人物ではなく北方諸民族出身思われる普段から牛輔厚遇されていた。 初平3年192年)、長安王允呂布らと対峙中、配下軍勢混乱し全軍反乱起こした思い込んだこのため牛輔と共にわずか数人逃亡図った。しかし、攴胡赤児と他の側近牛輔所有していた財宝に眼がくらみ、牛輔殺害してしまった。また、その首級手土産長安訪れたその後について記載がない。

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呂曠」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名呂曠 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地兗州東平郡 職官大将 爵位・号等列侯 陣営所属等袁尚曹操 家族・一族不詳袁紹三男袁尚配下大将で、同族とされる呂翔同僚である。建安8年203年8月袁尚に従って袁尚の兄・袁譚平原包囲する追い詰められ袁譚曹操降伏し同年10月曹操袁譚救援向かったため、袁尚平原包囲解いた。ところが、呂曠呂翔袁尚反逆し陽平駐屯し、まもなく曹操降伏して列侯封じられた。その後袁譚は、呂曠呂翔将軍印綬授けて懐柔ようとしたが、2人ともそれには全く乗らなかった。それどころ呂曠は、この件を曹操密告している。以後2人とも史書には登場しない

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胡車児」の記事における「正史の事跡」の解説

張繡配下軍中第一武勇誇った『三国志』魏書張繡伝注に引く『傅子』によると、建安2年197年)に張繡降伏したとき、曹操胡車児武勇賞して自ら金を与えたという。これを聞いた張繡は、側近暗殺されるではないか疑い曹操に再び反逆したという。この件のみで、以後史書記述がない。ただし同本伝では、曹操張繡族父張済の妻を側妾にしたため、これを怨恨思い謀反したとある。

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呂翔」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名呂翔 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地兗州東平郡 職官大将 爵位・号等列侯 陣営所属等袁尚曹操 家族・一族不詳袁紹三男袁尚配下大将で、同族とされる呂曠同僚である。建安8年203年8月袁尚に従って袁尚の兄・袁譚平原包囲する追い詰められ袁譚曹操降伏し同年10月曹操袁譚救援向かったため、袁尚平原包囲解いた。ところが、呂曠呂翔袁尚反逆し陽平駐屯し、まもなく曹操降伏して列侯封じられた。その後袁譚は、呂曠呂翔将軍印綬授けて懐柔ようとしたが、2人ともそれには全く乗らなかった。以後2人とも史書には登場しない

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李蒙」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名李蒙 時代後漢時代 生没年生年不詳 - 195年興平2年) 字・別号不詳出身地不詳職官軍中郎将 爵位・号等- 陣営所属等董卓李傕 家族・一族不詳董卓配下の将。初平1年190年)、孫堅軍進攻食い止めるため、董卓命令により徐栄と共に豫州出撃している。初平3年192年)、董卓暗殺事件勃発後、反乱起こした李傕郭汜同調して長安攻め寄せた董卓配下軍人一人として樊稠王方と共に名が挙がっている。しかし袁宏後漢紀』献帝紀によると、長安陥落後に撫軍中郎将となった李蒙は、理由不明であるが興平2年195年2月李傕殺害されたという。

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李整」の記事における「正史の事跡」の解説

興平元年194年)の兗州における張邈らの乱の際、叛いた薛蘭李封に父の李乾殺されたため、李整曹操指示により李乾の兵を統率した。 興平2年195年)夏、諸将と共に薛蘭李封撃ち破った続いて兗州諸県平定に従って功績をあげ、やがて青州刺史になった間もなく亡くなり従兄弟李典が軍を引き継いだ小説『三国志演義』には登場しない

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宋忠」の記事における「正史の事跡」の解説

荊州支配した劉表招請応じ儒者として教鞭をとった。また、かねてから親交のあった蜀郡太守王商へ、許靖教えを請うよう勧める手紙送っている。劉表死後引き続き劉琮仕えた。 それから間もなく劉琮曹操降伏申し入れたが、客将劉備には黙っていた。しかし、隠し通すのも限界となり、宋忠劉琮命令でこの旨を劉備伝えることになった事の次第聞いた劉備驚き怒り、剣を抜いて宋忠突きつけ貴様を殺すのは容易いが、貴様のような輩を殺すのは大丈夫の恥だ」と言い捨て宋忠追い払ったその後劉琮に従って曹操降った宋忠には子(名は不詳)がいたが、建安24年219年)の魏諷反乱加担して処刑された。父の宋忠健在であれば連座による処分受けていた可能性があるが詳細不明である。

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陳蘭」の記事における「正史の事跡」の解説

『三国志』魏書袁術伝等に記述がある。陳蘭雷薄同僚で、共に袁術部曲であった袁術帝位僭称したものの、暴政敷いたため人心失い呂布曹操との戦い敗れて零落した一方陳蘭雷薄袁術の下を出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もっていた。建安4年199年)、袁術雷薄陳蘭頼ってきたが、陳蘭らは袁術受け入れなかった。袁術やむなく袁紹の子袁譚頼り青州向かったものの病死することになった建安5年200年)冬、陳蘭梅乾梅成のことか、あるいは梅成縁者か)・雷緒雷薄本人か、あるいは雷薄縁者か)は、廬江太守であった李術(または述)が揚州刺史厳象殺して管轄地域混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江淮河一帯暴れまわった。しかし、曹操派遣した新任刺史劉馥合肥赴任し入城すると、梅乾雷緒らはこれに降伏した陳蘭動向不明である)。 建安14年209年)、陳蘭盟友梅成と共に再び灊山に立て籠もり孫権とも結んでその将軍韓当救援受けた。しかし陳蘭梅成は、曹操の命を受けた張遼于禁張郃臧覇らの討伐を受け、張遼猛攻前に敗北2人とも張遼によって斬られてしまった(『三国志』魏書張遼伝・于禁伝・張郃伝・臧覇伝)。

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田楷」の記事における「正史の事跡」の解説

公孫瓚配下初平2年191年以降公孫瓚従弟公孫範活躍もあって、袁紹をも凌ぐほどに河北勢力拡大していた。この時、公孫瓚厳綱冀州刺史単経兗州刺史任命し同時に田楷青州刺史任命した初平3年192年)、公孫瓚は界戦いで敗れたものの、袁紹軍崔巨業撃破して、平原方面まで南進した。これにより田楷は斉に駐屯し公孫瓚の下へ頼ってきた劉備らを配下として、袁紹対抗した。しかし2年余り戦うも糧食尽きたため、兵卒疲労困憊し青州民衆飢え苦しんだという。 初平4年193年)、曹操陶謙攻撃した時、陶謙援軍要請を受け徐州へ赴き、劉備補佐受けて陶謙救援した曹操が兵を退くと、劉備陶謙招聘受けて徐州にとどまることになり、田楷劉備別れて青州戻った。 やがて、袁紹の子袁譚平原拠点とし青州進出したため(後に曹操から刺史任命される)、田楷駆逐されてしまった。その後田楷袁紹軍敗れて戦死した

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審栄」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名審栄 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地冀州魏郡陰安職官東門校尉 爵位・号等- 陣営所属等袁尚 家族・一族叔父:審配 袁尚配下建安9年204年2月曹操袁尚本拠である鄴を攻めた際、審配がこれを守備した審栄審配指揮下で東門校尉務めていたが、同年8月東門開いて曹操寝返った審配は捕えられると、曹操から「裏切者審栄であった聞かされたため、審栄対し役立たず小僧分際で」と罵り悔しがった。審配処刑された後の審栄消息不明である。

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王匡 (河内太守)」の記事における「正史の事跡」の解説

若い頃から財貨軽んじて施し好み任侠をもって知られた。また、蔡邕親交があったという。はじめは何進大将軍府掾として仕え徐州赴任して軍需物資補給などの後方担当役を勤めていた。中平6年189年)、何進宦官によって殺害されたため、職を辞して郷里戻り平民となった。しかしまもなく、河内太守就任した『三国志』常林によれば王匡河内郡属する県の官民罪過探り疑わしい者を逮捕して取り調べ罪過があれば金や穀物要求し、すぐに金や穀物出さない者は一族ごと処刑し威厳高めた

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劉度」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名劉度 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官零陵太守 爵位・号等- 陣営所属等曹操劉備 家族・一族不詳零陵郡太守赤壁の戦い翌年である建安14年209年)、劉備劉琦荊州刺史とする名分零陵郡を含む荊州南部4郡へと進攻すると、劉度は他の郡の太守金旋韓玄趙範)と同様に降伏したその後は、生死含めて動向不明である。 『後漢書』の「度尚伝」や「南蛮伝」によると、延熹5年162年)に発生した荊州南部から交州にかけた反乱の際の荊州刺史の名も劉度で、敗戦逃亡の末に罰せられ、桓帝穆(中国語版)により度尚交代させられた。仮に同一人物であるなら、47年後にも同じ地域太守として派遣されていたことになる。

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冷苞」の記事における「正史の事跡」の解説

劉璋配下建安18年213年)、劉璋劉備の関係が悪化し劉備の入蜀始まった冷苞劉璝張任鄧賢と共に涪城劉備軍迎え撃った敗れ綿竹後退した以後史書には登場しない

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郭援」の記事における「正史の事跡」の解説

202年袁紹死去すると、曹操その子袁譚袁尚攻撃した袁尚曹操後方を脅かすため、匈奴単于呼廚泉平陽反乱を起こさせた上で郭援高幹数万軍勢侵攻させた。この時、馬騰曹操裏切って袁譚らに内通しようとしていた。しかし、叔父鍾繇郭援弱点分析し張既傅幹馬騰説得させて味方引き戻した。馬騰馬超龐徳に兵一万余り預け鍾繇援軍として派遣した(「鍾繇伝」・「張既伝」)。 郭援平陽城を目指し進軍する道中で、絳邑以外の全ての城を降伏させた。しかし、絳邑県長の賈逵だけが籠城して抵抗した郭援呼廚泉呼び出して激しく攻撃させると、絳の父老は賈逵殺害しないことを条件降伏願い出てきた。郭援賈逵名声聞き将軍取り立てよう思い脅迫して土下座させようとした。しかし賈逵が「賊に土下座する国家長吏がおるか」と怒鳴ったため、郭援怒って賈逵殺そうとした。しかし、絳の官吏民衆城壁登り約束違えるなら共に死ぬだけだ」と叫んだ上に、郭援側近たちの多くもが賈逵義士であると言い処刑免れるよう請願したので取り止めた賈逵皮氏河東郡要衝であり、先に占拠したほうが制する見ていた。そこで、郭援包囲されると郡へ密かに使者送り、「急いで皮氏拠るべし」と告げさせていた。郭援は絳を降す皮氏進軍しようとしたが、賈逵計略用いて郭援参謀である祝奥を混乱させたので、七日足止めされてしまった。河東郡軍勢は、賈逵言葉に従って先に皮氏占拠したため、敗北免れた(「賈逵伝」)。 その後鍾繇馬超龐徳関中軍と郭援高幹并州軍は、平陽において衝突した汾水至った郭援は、鍾繇予想通り関中連合軽視し并州連合諸将諫言無視して渡河ようとしたこのため并州連合軍は、半分しか渡りきらないうちに関中連合軍の攻撃を受けることになった郭援乱戦の中で馬超負傷させたが、龐徳斬首された。また高幹呼廚泉降伏した帰陣した龐徳弓袋から郭援首級取り出すと、鍾繇号泣したので龐徳謝罪した鍾繇は「郭援はわが甥とはいえ国賊です。貴公が謝る必要はありません」と答えたという(『魏略』)。

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沙摩柯」の記事における「正史の事跡」の解説

正史『三国志』では、呉書陸遜伝にしか記述見られない蜀漢味方した中国周辺民族の王。章武2年222年)、劉備随従し呉討伐参加している。しかし、陸遜火攻めのため蜀軍大敗し沙摩柯斬首された(夷陵の戦い)。

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蔣奇」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名蔣奇 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳出身地不詳職官不詳爵位・号等- 陣営所属等袁紹 家族・一族不詳袁紹部将その事跡は、官渡の戦い前後についてのみ残されている。 建安5年200年10月官渡の戦い終盤戦において、袁紹都督淳于瓊食糧守備するよう命じ淳于瓊烏巣駐屯した。この時、袁紹参謀にして都督である沮授は、蔣奇別働隊率いさせ、事前に淳于瓊連動して曹操奇襲備えるよう袁紹進言したが、受け入れられなかった。その結果烏巣陥落し袁紹曹操大敗喫したのである。 この敗戦後蔣奇同僚孟岱と共に日頃から仲が悪かった同僚審配袁紹讒言し失脚させた。これにより孟岱監軍取り立てられているが、蔣奇如何なる官職についたかは不明である。結局その後逢紀弁護もあって審配復権した。これ以降蔣奇孟岱史書から姿を消す

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蒯越」の記事における「正史の事跡」の解説

最初何進に東曹掾として仕え宦官殺害進言したが容れられなかった。その後蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下大将となった初平年間に、蒯越謀略弁舌駆使して荊州劉表対立していた地方官豪族次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表荊州統一大きく貢献している。後、献帝詔勅により、章陵太守任され、樊亭侯に封じられた。 官渡の戦いが起こると、曹操味方することを韓嵩劉先と共に進言したが、劉表には受け入れられなかった。 建安13年208年)、曹操荊州進攻する中、劉表死去し劉琮後継した。蒯越韓嵩傅巽と共に曹操への降伏劉琮進言し、劉琮はこれを受け入れた降伏後蒯越曹操から列侯封じられ光禄勲となった曹操は、荀彧の手紙の中で「荊州手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と記している。 建安19年214年)に死去臨終の際、蒯氏一門託す手紙曹操送り曹操報書して蒯越願い応えることを誓った

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沮鵠」の記事における「正史の事跡」の解説

姓名沮鵠 時代後漢時代 生没年不詳〕 字・別号不詳本貫出身地冀州鉅鹿郡広平県 職官爵位・号等- 陣営所属等袁尚 家族・一族父:沮授 叔父:沮宗 袁尚配下建安9年204年)春、袁尚は兄の袁譚攻撃しよう図り幕僚審配に鄴を守備させ、沮鵠には邯鄲預けて審配連動させた。まもなく曹操が鄴を攻撃してきたが、容易に陥落させることができない見て周辺地域掃討へと作戦転換した同年夏、曹操軍邯鄲攻撃してきたため沮鵠防戦したが、敵し得ずにまもなく陥落したその後沮鵠の名は史書見当たらない

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袁煕」の記事における「正史の事跡」の解説

建安年間恐らくは公孫瓚滅亡した建安4年199年))に、袁煕幽州刺史任じられている。袁煕任地に向かう一方で、その妻の甄氏(後の魏の文昭皇后)は鄴に残って姑を世話していた。 建安7年202年)、袁紹後継者定めないまま病没すると、兄と弟がそれぞれ後継表明した家臣団支持喰い違い袁氏勢力二分されることになってしまった。しかし実子であるにもかかわらず袁煕がこの争い積極的に加わったとされる記載は無い。 建安9年204年)、弟が曹操および兄に敗れると、これまで曹操敵対していなかったに関わらず袁煕はあえて弟を管轄地故安迎え入れて助けた。この行動幽州豪族反感抱かれ結果的に焦触張南多く離反招いてしまう。袁煕は弟とともに遼西烏桓大人単于班を頼って逃れた建安12年207年)、遼西進軍してきた曹操を、袁煕袁尚烏桓蹋頓班の族兄)らと柳城迎撃した(白狼山の戦い)。しかし再び敗れ最後遼東公孫康頼って落ち延びた曹操恐れた公孫康は、袁煕袁尚を斬って曹操の手土産にしようと企み2人偽って歓迎した。これに袁煕疑い抱いた。しかし、むしろ公孫康の軍を奪い取ろう考えていた弟の強弁もあり、ともに公孫康の下に向かった結果、やはり2人公孫康騙し討ちにより殺害され、その首級曹操のもとへ送られることになった。なお、『三国志』魏書袁紹伝(付、袁譚袁尚伝)注に引く『典略によれば処刑直前袁尚が寒がって筵を求めたが、すでに覚悟決めていた袁煕は「首級万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と弟をたしなめたとされる袁煕自身殺害された後、その子孫生き延びて袁氏命脈伝え、唐代において宰相袁恕己(中国語版)を輩出している。

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