正月大饗(律令時代)
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最初に比較を行ったのは『九条殿記』天慶8年(945)正月5日条の右大臣藤原実頼が小野宮で開いた正月大饗の記録と、平安時代末の仁平2年(1152)正月26日に左大臣藤原頼長が東三条殿で聞いた正月大饗である。 正月大饗とは太政官の長が太政官府の部下を招く饗宴であることには平安中期も平安末期も変わらない。しかしひとつだけ大きく違うところがある。画像920は平安時代末の仁平2年(1152)の席の配置であるが、殿上人座とか諸大夫の座が設けられていることである。これは貴族社会の変化とみて良いが、ただしその席は外記・史などより遠くに、南庭が見えない裏側(北側)の場所に隔離され、それによって大饗の有職故実を維持している。
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正月大饗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
正月大饗は太政官である大臣が開くが、東三条殿の場合、画像920のように寝殿母屋に尊者(主賓)と公卿、西庇の間の弁・少納言、外記と史が西北渡殿(複廊)で内郭の床の上、下級職員の史生が庭の中島でここまでが太政官の職員である。太政官でない四位・五位の官人も招かれてはいるが、内裏や院御所に昇殿を許されている殿上人が北西渡殿(複廊)であるに対し、地下(じげ)の諸大夫は西中門廊である。
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