毛利氏に帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/11 14:21 UTC 版)
天文22年(1553年)、山内隆通が宍戸隆家と口羽通良から毛利氏へ帰順するよう説得を受け、隆通は同年12月3日に9ヶ条の条件を元就に出しているが、その第2条は実父の通続が毛利氏に帰順した際に通続を疎略に扱わないことであった。元就が9ヶ条のうち、第2条を含む7ヶ条を承認したことで、山内氏は毛利氏に帰順した。その直後の12月13日に通続は毛利氏に帰順し、周防国玖珂郡山代の天所別所、河山村、羽野村600貫の地を与えられた。弘治元年(1555年)、多賀山氏の菩提寺の功徳寺が火災にあったため、通続は寺領を寄進し、宗派を臨済宗から曹洞宗へと改めた。 永禄12年(1569年)の立花城の戦いや多々良浜の戦いに通続も従軍したが、元亀元年(1570年)に死去。次男の通定が多賀山氏を継いだ。なお、通続が「露休」と名乗っていた晩年に腹痛を起こしたため、子の山内隆通が幕臣の結城意旭から薬を取り寄せ通続に送ったことに通続が感謝し、安心するようにと述べた書状が残っている。
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