永禄の変
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永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。永禄の政変と呼称されることもある[注釈 1]。なお、松永久秀をこの事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加していたのは息子の久通であり、当日久秀は大和国にいて直接関与はしていない[4]。
注釈
- ^ この「永禄の変」の呼称が用いられた早い例としては、近世細川氏の成長過程でかつてともに室町幕府に仕えていた諸家が集まってくる事例として角田藤秀と細川輝経の二人のケースを紹介した福原透の1998年の論文がある[1]。そのむすびの中で 永禄の変で討死した松井新次郎勝之(康之兄)と書いている。 また、高梨真行の2004年の論文は、永禄5年(1562年)3月に当時洛中を支配していた三好氏が畠山氏・根来寺衆徒連合軍に敗れて以来の諸政争を、伊勢氏が関係している古文書を中心に論じているが[2]、その最後(48ページ)でこの事件を 足利義輝の殺害(永禄の変)と記している。 天野忠幸は2012の著書で、近年、「永禄の政変」と称される事件である と述べる[3]。以降これらの呼称を用いる研究者も増えてはいるものの、なお一般化しているとまではいえない。
- ^ 進士晴舎は三好氏・松永氏との取次であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる[5]。
- ^ 上泉信綱にも兵法を学んだとする説もあるが、義輝が信綱に兵法を学んだとする記述は史料上では確認できない。
- ^ この時の「足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、これを取り替えながら敵兵を斬り倒した」という義輝奮戦の記述は江戸後期の『日本外史』のもので、事件に近い時期の史料にはそのような記述はない。義輝は、創作を元にした俗説が広がり「剣豪将軍」と称されているが、実際に剣豪であったわけではなく、免許を皆伝したと言う史料も確認できない。
- ^ ただし、小笠原稙盛には生存説もある(後述)。
- ^ 将軍が「自害」したという記述は、少なくとも『言継卿記』には見られない。「生害」とは単純に「殺された」という意味で、他者に殺害された場合にも自害した場合にも用いられた。ただし、後の時代の信頼性の少々劣る記録になら、松永貞徳の『戴恩記』などの、御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようにはなる。
- ^ 奉公衆の進士晴舎の書状によれば、この義晴の死は自害によるものであった(『集古文書』)。
- ^ 足利義澄の子である義維は、義稙の養子・後継者となって実兄の義晴に対抗していわゆる「堺政権」を立てた。義維と子の義栄が義稙系将軍家、義晴と子の義輝(および弟の義昭)が義澄系将軍家である。
- ^ 柴によれば、御所巻による政治的要求はかつての観応の擾乱における足利直義失脚、康暦の政変における細川頼之失脚、文正の政変における伊勢貞親失脚などでたびたび発生していて珍しいものではない。ただ、フロイスの記述によれば、三好方の岩成友通が進士晴舎に突き付けた要求には将軍の奥方(正室の近衛氏か)と進士晴舎の娘(小侍従局)、「大身(の側近)」の殺害が含まれており、それが事実ならば義輝にとっては受け入れ難い内容を含むものであり、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。
- ^ 山田邦明・柴裕之に近い立場(御所巻における政治的要求の取次を進士晴舎が拒否して自害したことで「手切れ」とみなされたとする)を取る木下昌規は、最初から義輝を殺害する意図があるならば直ちに攻撃すれば良いのに政治的交渉を行おうとしたことの説明がつかない、一方で政治的な要求がフロイスの記述通りであれば処刑を要求した「妻妾」「大身(の側近)」には三好・松永側に対する交渉窓口である進士晴舎・小侍従局父娘を含めていた可能性が高くて初めから交渉が成り立たない、という問題点を指摘している[17]。
- ^ 東大寺は二月堂・法華堂・正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡の南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、120年以上も後の1680~1700年代(貞享・元禄年間)のことであった。
- ^ これまで、公家社会では近衛家が足利義晴・義輝父子と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、九条家や二条家が足利義維・義栄父子を支援していた。このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、近衛前久は父稙家の病気の影響か、稙家の弟義俊の計らいで奈良を脱出した義昭と行動を共にせず義栄を擁する方向に転換し、またこれを受けて九条稙通や二条晴良は逆に義昭を支援するという、摂関家と将軍家の関係の変動が起こった。[18]
- ^ なお、九条家・二条家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺(法主である大谷家は元々は九条家の家司的存在であったとされる[19])は、義栄支持の立場を変えることなく、義昭に追放された近衛前久を受け入れ、従来二条家に依頼してきた法主の猶父も近衛家に切り替えている。義昭・信長と前久・本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、その後信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、いわゆる信長包囲網を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。
出典
- ^ 福原透「松井家研究余録 角田因幡守入道宗伊・細川陸奥守入道宗賢者の事績について」『熊本史学』74,75号、1998年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 高梨真行「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向 ―東京国立博物館所蔵「古文書」所収三淵藤英書状を題材にして」『Museum』592号、2004年10月。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 天野 2012.
- ^ 天野 2014, p. 250.
- ^ 木下 2018, pp. 27・51-52.
- ^ 木下 2018, p. 37.
- ^ 木下聡「『後鑑』所載「伊勢貞助記」について」『戦国史研究』57号、2009年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 『言継卿記』
- ^ 歴史評論, 第 639~644 号
- ^ a b 木下昌規 著「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 ほか 編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年。/所収:木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。
- ^ 小林 2005.
- ^ 「興福寺大般若経奥書」天文20年5月11日条。ただし、1年後の記述では河内の有力者だった萱振賢継の野心のための謀反と見られており、義輝の関与は推測されていない。
- ^ 山田 2000, 「第四章 戦国期の政所沙汰」.
- ^ 山田康弘「将軍義輝殺害事件に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。
- ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 木下 2018, pp. 50–53.
- ^ 水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」『織豊期研究』第12号、2010年。/所収:久野雅司 編『足利義昭』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
- ^ 辻川達雄『蓮如と七人の息子』誠文堂新光社、1996年。ISBN 978-4-416-89620-4。
永禄の変
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また、永禄の変で足利義輝が襲撃してきた三好三人衆・松永久通の軍に対し、将軍家に代々継承される刀を畳に突き刺し奮戦したという説が流布されているが、義輝の武勇伝が確認できる史料「足利季世紀」「永祿記」には「利刀」を突き刺したとあり名刀とは記されておらず三日月宗近も登場しない。さらに、永禄の変から最も近い時期に記されたルイス・フロイスの『日本史』には「幾多の刀を取り替えて奮戦した」などとは一切書いておらず、「名刀を使用して戦った」という部分から疑問視されるものである。足利義昭から羽柴秀吉に下賜された、という伝来もあるが、こちらも史料による裏付けはない。 『享保名物帳』には、尼子氏の家臣で忠義の逸話で知られる山中鹿之介(山中幸盛)が一時佩用していたという伝承、また高台院の従者で似名の「山中鹿之助」なるものが与えられて佩用していたという伝承があるが伝承の枠を出ない。現存する鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されている。刀剣研究家の福永酔剣は著書『日本刀大百科事典』にて、鹿之助は三日月を信仰し武具にも三日月をあしらったといわれることから、鹿之助が佩用していたという伝承が正しいとすれば、この拵えは鹿之助が作らせたことも考えられると指摘している。
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永禄の変
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長慶の死後、三好氏の家督は義継が継いだ。しかし義継は若年のため、三好政権は義継の後見人である三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆、阿波三好家を支える篠原長房・三好康長、大和の松永久秀、丹波の松永長頼による連立政権が樹立されたのである。 一方、長慶の傀儡だったが各大名との停戦協定などの仲介で力を秘め、将軍親政を掲げ君臨していた第13代将軍・足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なうようになった。このような義輝の行動に危機感を持った三好三人衆らは永禄8年(1565年)5月19日にクーデターを起こして義輝を彼の居城であり、室町幕府の中心拠点だった二条御所で暗殺した(永禄の変)。
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永禄の変(弘治・永禄年間)
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「戦国時代 (日本)」の記事における「永禄の変(弘治・永禄年間)」の解説
「永禄の変」および「東大寺大仏殿の戦い」を参照 将軍・足利義輝の近江出奔後、三好長慶は畿外の晴元方勢力を平定し勢力を拡大させて行き、永禄4年(1561年)頃には阿波・讃岐・淡路・摂津・和泉・河内・丹波・大和・山城に加え播磨の一部も勢力下に置き最盛期を迎えた。 一方、近江に逼塞していた義輝は永禄元年(1558年)になって上洛戦を敢行した。長慶も四国勢を召喚して対抗したが、11月に六角義賢の仲介により両者は和睦し義輝の京都復帰が5年ぶりに実現した。帰洛後、なおも一程度の全国の支配権を維持していた義輝は地方政策転換の姿勢を明確に表した。それまで幕府は、九州では九州探題の渋川氏を将軍に最も近い権威とし、奥州では奥州探題の大崎氏を地域の武家秩序の要として据えていた。幕府は天文12年(1543年)に大友義鑑が九州探題補任に関する礼銭について打診したり、伊達稙宗が奥州探題の補任を求めてもこれを応じることはなかった。しかし永禄2年(1559年)大友義鎮を九州探題に、伊達晴宗を奥州探題にそれぞれ補任。さらに義輝の京都復帰を受けて「国之儀一向捨置、無二可奉守 上意様御前」と在京奉公のために上洛した上杉謙信に対し関東管領・上杉憲政の進退について一任。永禄4年(1561年)閏4月、謙信は関東管領に就任した。こうして義輝は室町幕府を頂点とし、地方の有力大名を取り込む新たな武家秩序を構築していった。 大友義鎮 伊達晴宗 上杉謙信 しかし永禄8年(1565年)5月、長慶の没後三好家の家督を相続した三好義継らが行った御所巻が争いに発展し、その中で義輝は討死してしまった。太田牛一筆の『信長公記』は、織田信長の事績を扱う軍記にもかかわらず永禄の政変から記述を始めるなど、このクーデターが当時の社会に与えた衝撃は大変なものであった。 永禄9年(1566年)には阿波から渡海した足利義栄(義親→義栄。以下義栄に統一)が畿内に入り、義継を担ぐ三好三人衆は義栄の将軍就任に向けて活動を始めた。これに対して畠山高政を筆頭とした反三人衆方は、義輝の弟である足利義昭(足利義秋→義昭。以下義昭で統一)を擁立する動きを活発化させ各地の大名に協力を求めた。さらに義継や三好政権の有力武将だった松永久秀も三人衆と反目し反三人衆方に転向した。こうして義栄擁立を目指す三好三人衆と、義昭を将軍位に就けようとする畠山氏・松永氏ら反三人衆方との政治対立が紛争を引き起こしていった。上杉謙信は反三人衆方の呼びかけに呼応し、「三好・松永が一類、悉く首(こうべ)を刎ね」る決意を神仏に誓い3度目の上洛を目指したが、当時武蔵を巡って北条氏と抗争中だったため上洛することは出来なかった。 その後、義栄は永禄11年(1568年)3月に将軍に補任された。ただ阿波出身で幕府奉行衆とのつながりを持っていなかった義栄は幕府機構を整備出来ず、上洛して政務を執ることは無かった。義栄は摂津・富田の普門寺に留まり続け、補任した同年9月には病没した。 一方、永禄の政変の直後、大和・興福寺から脱出した義昭は、逃亡先の越前から諸国の大名に上洛への協力を呼びかけた。この呼びかけを受け永禄9年(1566年)に義昭を供奉し上洛する意向を示していた尾張の織田信長が、美濃の斎藤龍興を討伐し上洛への態勢を整えることに成功したため、永禄11年(1568年)に上洛戦を実行した。擁立を目指してきた義昭が信長と共に上洛戦を開始したのを受け、反三人衆方は義昭と信長に合流した。上洛した信長は畿内を平定することにより「天下統一」を成し遂げ、同年10月、義昭は第15代室町幕府の将軍に就任した。 一旦は阿波に引き下がった三人衆だが、翌永禄12年(1569年)1月早くも反攻に転じ本圀寺に義昭を急襲した。しかし畿内の各守護・奉公衆らによる幕府軍が奮闘を見せ、天下の静謐を守り通した。
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