こう‐なん〔カウ‐〕【江南】
江南
江南
江南
江南
江南
〒990-0863 山形県山形市江南
〒950-0855 新潟県新潟市東区江南
〒640-0343 和歌山県和歌山市江南
〒880-0944 宮崎県宮崎市江南
江南
江南(カンナム)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:17 UTC 版)
「天山の巫女ソニン」の記事における「江南(カンナム)」の解説
半島の西南部に位置する国。南風と暖流がもたらす温暖な気候から海産物をはじめさまざまな物産に富む。海運業と外国との交易が盛んで、独特の異国趣味溢れる華麗な文物は、他国の羨望の的となっている。その一方で貧富の差は激しく、外戚であるキノ一族が国内の利権の大半を独占し、彼らによる専横が甚だしいなど、大きな社会矛盾を抱えている。巨山の侵略によって国土の大半を蹂躙された上、大嵐の被害にも見舞われるなど、現在国力は大きく疲弊している。
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江南(マンジ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)
「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「江南(マンジ)」の解説
12年(丙申年)に諸王功臣に分撥された。 名称別名現名戸数王家備考永州路 湖南省永州市 60,000(6トゥメン) ジョチ家 澧州路 湖南省常徳市 67,330(6トゥメン) チャガタイ家 衡州路 湖南省衡陽市 53,930(5トゥメン) コルゲン家 常徳路 湖南省常徳市 47,740(6トゥメン) コデン家 撫州路 江西省撫州市 104,000(10トゥメン) トゥルイ家 宝慶路 湖南省邵陽市 フレグ家 韶州路 広東省韶関市 41,019(4トゥメン) 国王ムカリ家 汀州路 福建省龍岩市 40,000(4トゥメン) デイセチェン家 広州路 広東省広州市 27,000(2トゥメン) ブトゥ駙馬家 桂陽州 広東省連州市 21,000(2トゥメン) クイルダル家 連州 広東省連州市 21,000(2トゥメン) ジュルチェデイ家 南豊州 江西省撫州市南豊県 11,000(1トゥメン) ダアリタイ家 信州路 江西省上饒市 30,000(3トゥメン) カサル家 建昌路 江西省撫州市南城県 65,000(6トゥメン) カチウン家 建寧路 浙江省建徳市 71,377(7トゥメン) オッチギン家 鉛山州 江西省上饒市鉛山県 18,000(2トゥメン) ベルグテイ家 柳州路 広西チワン族自治区柳州市 27,000(2トゥメン) アラクシ駙馬家 全州路 広西チワン族自治区桂林市 17,919(2トゥメン) 広平王ボオルチュ家
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江南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 20:46 UTC 版)
呉語では湯糰といい、寧波のものが特に知られている。白玉粉、ゴマ、ラード・砂糖・粉末黒ゴマを合わせた餡を合わせて作る。色は白く、粘らないものが有名である。現在、寧波の近隣ではこの製法が多く取り入れられている。缸鴨狗などの店が知られている。
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江南(1645年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
詳細は「南明」を参照 弘光政権 国・勢力指導者状況・目的清 ドド 南明を攻撃。勝利 南明(弘光政権) 弘光帝、史可法、馬士英等 敗北 北京陥落と崇禎帝自殺の情報は、4月には江南にも伝わったが、人々は信じようとせずに通常の祭礼を行なっていた。しかし、明王家の一部が予備的首都であった南京に到着して事実と分かると、江南も騒然とした。南京では後継者をめぐって議論が起きたが、崇禎帝の息子が生死不明であったため意見が一致しなかった。南京の史可法と鳳陽県の馬士英は、次の後継者であり崇禎帝の最初の従兄弟である福王朱由崧のもとで明に忠誠を誓う政権を作ることに合意した。1644年6月19日、朱由崧は馬士英と大艦隊の擁護のもとで弘光帝として即位し、年号を弘光として統治することになった。しかし、明末の特徴である政争や官僚の腐敗は続き、弘光政権は支持を失っていった。清軍は南明司令官李成棟(中国語版)と劉良佐(中国語版)の降伏に助けられ、1645年5月初旬に徐州を手に入れた。南明の司令官の裏切りは清軍を助け、史可法が防衛する揚州府をのぞいて北部全域を得た。 江南における清軍は、平和的な亡命者に対しては暴力をふるわなかった。1645年5月13日には清の数個分隊が揚州に集まった。揚州を行進する清軍の大多数は、明の亡命者であり、満洲人や八旗をはるかにしのいでいた。揚州では史可法の小部隊が市民や農民も率いて戦ったが、ドドの砲兵隊には抵抗できず、5月20日に漢軍八旗が使う清の大砲が市の城壁を突破した。史可法は投降を拒否して処刑され、揚州城の陥落時にも市民や兵士は激しく抵抗したため、清軍の怒りを招いた。ドドは江南の他の都市を恐怖に陥れて清に降伏させるように、今後の見せしめとして揚州の全人口[145]の「残忍な大虐殺」を命令した。 6月1日に清軍は長江を渡り、南京への道を守る鎮江府を奪取した。清軍は1週間後に南京の城門に到着したが、南明の弘光帝は既に逃げていた。1か月も経たないうちに、清は逃げていた弘光帝を捕えて蘇州府や杭州府など江南の主要都市に侵攻し、清と南明の国境は南の銭塘江へと押されていた。ヨハン・ニューホフ(英語版)は南京が清の兵士により傷つけられなかったことに気付いた。ドドは、清軍が黄河を渡る前に南明が清軍を強襲したなら南明は勝っただろうと語り、1645年の戦略について弘光帝を厳しく叱り、弘光帝は言い返す言葉が見付からなかった。弘光帝は翌年に北京で死去した。 満洲人の兵士は、城内に女性を囲い込んだ。女性は身代金の価格を示す札を付けられ、安くて3両ないし4両、良い服を着ている女性は最大で10両だった。南京が平和的に降伏した後で、揚州から捕らえた女性を元々の夫や父親に受け戻した。
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