治世初期と反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)
サルゴン2世は王となった時、既に中年と言える年齢であり、恐らく40代であった。そしてカルフ(ニネヴェ)にあるアッシュル・ナツィルパル2世(在位:前883年-前859年)の宮殿に住んだ。サルゴン2世の前任者シャルマネセル5世は、父ティグラト・ピレセル3世の拡張主義的政策を継続しようとしたが、彼の軍事的努力は迅速さと効率性において、父に及ばなかった。特に、長期間にわたる彼のサマリア(英語版)(現:イスラエル領)包囲は3年間におよび、彼が死亡した時点でもまだ続いていた。サルゴン2世は王位に就いた後、すぐにこの地の税と労役を廃止し(後に碑文において彼はこの税と労役を批判した)、シャルマネセル5世の遠征を手早く解決することを目論んだ。サマリアは速やかに征服され、これによってイスラエル王国は滅亡した。サルゴン2世自身の碑文によれば、27,290人のユダヤ人がイスラエルから追放され、アッシリア帝国全域に再定住させられた。これは打ち破った敵国の人々を強制移住させるアッシリアの処分方法に沿ったものであり、この強制移住は有名なイスラエルの10支族の喪失を引き起こした。 サルゴン2世の統治が始まった当初、アッシリアの中核地帯と帝国の周辺地域での抵抗に直面した。これは、恐らく彼が簒奪者であったためである。その治世初期に多発した反乱の中には、ダマスカス(英語版)、ハマト、アルパドのような、かつて独立していたレヴァント諸王国によるものがあった。ハマトはYau-bi'diという人物に率いられ、レヴァント人の反乱を主導する勢力となった。しかし前720年にサルゴン2世はハマトを打倒することに成功した。その後、サルゴン2世はハマトを破壊し、さらに同年のカルカル(英語版)における戦いでダマスカスとアルパドも撃破した。秩序を回復するとサルゴン2世はカルフに戻り、6,000~6,300人の「アッシリア人の罪人」または「恩義を知らぬ市民」(アッシリア帝国の中核地帯で反乱を起こしたか、サルゴン2世の即位を支持しなかった人々)をシリアに強制移住させ、ハマトや内乱によって破壊され損傷を受けた都市を再建させた。 アッシリアの政情不安は、かつてメソポタミア南部の独立した王国であったバビロニアの反乱をも引き起こした。バビロニアの有力な部族ビート・ヤキン(Bit-Yakin)の首長メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ2世)がバビロンの支配を奪い、バビロニアにおけるアッシリア支配の終了を告げた。サルゴンはメロダク・バルアダン2世を倒すため、ただちに軍隊を派遣した。サルゴン2世に対抗するため、メロダク・バルアダン2世はアッシリアと敵対していたエラムと速やかに同盟を結び、大軍を編成した。前720年、アッシリア軍とエラム軍はデール(英語版)市近郊の平野で会戦した(バビロニア軍は戦場への到着が遅れ、この戦闘には参加していない)。余談であるが、2世紀後、同じ戦場でハカーマニシュ朝(アケメネス朝ペルシア)の軍隊が最後のバビロニア王ナボニドゥスを破ることになる。この戦いにサルゴン2世の軍隊は敗れ、メロダク・バルアダン2世は南部メソポタミアの支配権を確保した。
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