治水・利水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:15 UTC 版)
敗戦後、戦前に計画された霞ヶ浦放水路計画は河口維持の難点や工費を理由に、既存の北利根川や常陸利根川の拡幅と浚渫によって拡張し、逆水門を建設する案に変更された。これにより、1948年から浚渫工事が着手される。しかし、このことによって海水が流入しやすくなり、「昭和33年塩害」など霞ヶ浦の周辺域では農作物被害などの塩害が顕著に発生するようになったことが常陸川水門(通称:逆水門)の建設を強く促進した。常陸川水門は、当初から汽水性のヤマトシジミが生息できなくなることなどから特に漁民の強い反対を招いてきたが、水門の完成によって霞ヶ浦の淡水化は決定的になった。 一方、当時の日本は1960年に国民所得倍増計画、1962年には全国総合開発計画が策定され、高度経済成長のさなかにあり、それに伴う霞ヶ浦への利水上の要請は霞ヶ浦開発事業へと発展することとなる。霞ヶ浦開発事業は広域地域開発と首都圏の長期的な水需要のための利水と治水の目的で行われ、1968年に建設省によって着工され、1971年に水資源開発公団が事業を継承。以来25年の歳月をかけて1996年に総事業費約2864億円で完成した。 また、この他の霞ヶ浦での水資源開発の大きな事業は、霞ヶ浦導水事業や霞ヶ浦用水事業があげられる。霞ヶ浦導水事業は那珂川の下流部と霞ヶ浦・利根川を巨大な地下水路で結ぶ計画であり、1984年に着工。2000年竣工の予定であったが、完成には至っておらず、さらなる期間の延長と事業費の投入が行われている。また、霞ヶ浦用水事業は、霞ヶ浦から筑波山をトンネル水路で通過し、つくし湖(南椎尾調整池)を経て茨城県南西部へ灌漑用水や都市用水を供給する事業で、1994年3月に総事業費約895億円で完成している。 これらの一連の事業は、鹿島臨海工業地帯の開発や筑波研究学園都市などの開発事業や、首都圏・都市域の拡大と人口増加を背景にした水資源開発の要請と連動しつつ行われきたものである。
※この「治水・利水」の解説は、「霞ヶ浦の歴史」の解説の一部です。
「治水・利水」を含む「霞ヶ浦の歴史」の記事については、「霞ヶ浦の歴史」の概要を参照ください。
治水・利水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 03:14 UTC 版)
江戸時代以前は灌漑の為、田植えの季節に福岡村・福岡新田村・中福岡村の3ヶ村で川を仮に堰止め、水を利用していた。流量が少ないため氾濫はみられなかったが、台風のたびに増水はあった。後に公共下水道雨水幹線となった。1970年代以降、生活排水及び東京エアゾール工業埼玉工場(現在は移転)の工場排水のため水質の汚濁及び悪臭が問題になっていた。1990年代に水宮2番地付近(水天宮橋)から上流が暗渠化され、道路または遊歩道となった。
※この「治水・利水」の解説は、「福岡江川」の解説の一部です。
「治水・利水」を含む「福岡江川」の記事については、「福岡江川」の概要を参照ください。
- 治水・利水のページへのリンク