法典論争前哨戦
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1885年(明治18年)12月、初代第1次伊藤内閣が成立。外相井上馨、法相山田顕義。山田はときに司法省法学校に出席し、学生とともにボアソナードの仏法講義を受けていた。日本法律学校創立者。 1886年(明治19年)12月、元老院で財産法案の審議が行われたが、条約改正優位論への不信感が示されており、以後一貫して慎重討議を希望した元老院は編纂過程に不満を募らせた。 1887年(明治20年)3月、「泰西主義」に基く裁判所構成法、刑法、治罪法、民法、商法、民事訴訟法を完備し、条約批准交換後16か月以内に英訳正文を各国に「通知」すべきことが、正式の外交文書によって認めさせられた(後に撤回)。列強の要求はさらにエスカレートし、真にウェスタンプリンシプルか列強の「査定」をも要するとされた。 4月、法律取調委員会は諸法典を統一整理すべきと決議し、井上は草案議定中止を稟議、内閣も承認し、元老院の猛反発を押し切って民法二編を一旦廃棄。批准後2年内の法典制定が要求されたため、井上は、一事項に結論が出るまで会議を中止せず食事も出さない"兵糧攻め"をしてまで編纂を急がせた。 ところが、内地雑居・外国人判事受け入れを内容とする条約改正に対し、ボアソナードや谷干城らが反対運動を起こす。 「条約改正#条約改正会議と世論の沸騰」も参照 谷農相は、外国人におもねる法典編纂を主権の侵害と非難する意見書を政府に提出。山田法相も「法典を泰西主義に拠り編纂することは、我国情に即応せず、且不測の変を生ずることを」おそれる、と慎重論を述べた(ボアソナードの強い影響が指摘される)。伊藤首相と井上外相は長文の意見書で反論、井上は「今日文明人民の所要に適」する近代法典編纂の必要性を説き、伊藤も外国人起草を非難する谷に反駁して、決して条約改正のために彼らを雇用したのではない、明治4、5年以来英仏を範に法律を制定してきたのだから、今さら非難するのは死児の齢を数えるに等しいと主張(『伊藤博文秘録』31頁以下)。 福澤諭吉の時事新報も、国情を無視した法典編纂の強行を非難したが(6月20日社説)、政府の弾圧を受け発行停止にされた(内務大臣山縣有朋)。 一方、明治天皇は井上外交の支持者であった。 結局、外務省主導の法典編纂事業は井上外相の辞任により頓挫、成果は裁判所構成法草案の完成のみに止まった。
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