洞爺丸事件後の安全対策
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「大雪丸 (初代)」の記事における「洞爺丸事件後の安全対策」の解説
洞爺丸事件の重大さを考慮し、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同年11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した。これらの審議会では、青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。それらに従って、沈没を免れた連絡船にも種々の改良工事が施された。 1955年(昭和30年)12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として完全な予備浮力とし、照明を蛍光灯とした。 救命艇を吊り下げるボートダビットは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろすとき、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これでは人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットに交換され、救命艇も木製から軽合金製のものに交換された。 非常時に、車両甲板下第二甲板の3等船室から、上部遊歩甲板への脱出路となる階段は、従来は最も面積をとらないよう、各階とも同一場所に同一方向に設置されていたため、各階ごとに後ろへ回り込まなければ上がれなかったものを、階段配置が直線になるよう改造された。 車両甲板上の石炭積込口を含む開口部の敷居の高さを61cm以上とし、それらを水密の鋼製のふたや扉で閉鎖できるようにし、車両甲板上に大量の海水が浸入しても、機械室やボイラー室へ流れ込まないようにし、これらの部屋の換気口も閉鎖し、電動換気とした。また主発電機(500kVA 2台)故障時に、推進補機、主要航海通信機器、非常灯電源を確保するため、蒸気タービン駆動の200kVA補助発電機1台を追加設置した。これは通常、出入港時に無負荷運転して非常事態に備えたが、主発電機との並列運転はできなかった。また、従来は機械室床下にあった発電機を床上に上げて、機械室内に海水が多少溜まっても浸からないようにした。 洞爺丸型では船内の交流電化が進められ、電動油圧式操舵機を動かす油圧ポンプの動力や、車両甲板下の水密隔壁間を船艙レベルで交通する、水密辷戸の動力にも交流電動機が用いられていた。このため、交流電源故障時にも、これらの使用が継続できるよう、蓄電池容量を増大のうえ、操舵機には直流電動機を追加設置し、手動クラッチとベルトを介して、この直流電動機からも油圧ポンプが駆動できるよう改造した。水密辷戸については、1955年(昭和30年)5月11日に発生した宇高連絡船の紫雲丸事件後の同船の対応にならい、3ヵ所の交流電動機直接駆動方式辷戸のうち、1ヵ所が直流電動機直接駆動方式に改造された。 1960年(昭和35年)3月には、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)と同構造の船尾水密扉が設置された。この工事では、船尾扉設置位置をできるだけ船尾側へ寄せるため、甲板室後部端から船尾に至る船内軌道の“屋外”部分を鋼製“トンネル”で覆い、その後端に船尾扉が設置された。このため、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで約2mと、十和田丸(初代)より約4mも船尾側に船尾扉を設置できたため、ワム換算積載車両数19両が維持できた。これに伴い、端艇甲板の船尾側を“トンネル”の上へ張り出し、“トンネル”上に組んだ櫓でこの部分を支え、後部操縦室(ポンプ操縦室)をその上に移した。 この工事では、さらにボイラーが石炭焚きからC重油専燃に改造され、これにより石炭積込口廃止による車両甲板面の一層の水密性向上と、無煙化による旅客サービス向上が図られた。重油焚きは石炭焚きに比べ、1缶当たりの蒸発量が増大し、5缶で石炭焚き6缶と同等性能が確保されるため、右舷最後部のボイラー1缶を撤去し、そのあとに燃料常用槽と自動燃焼制御装置が設置された。このとき外舷色は黒から十和田丸(初代)に似た“とくさ色”(10GY5/4)に変更された。船尾水密扉設置により車両格納所容積も加算されて5,855.01総トンとなった。 1961年(昭和36年)6月には、十和田丸(初代)、羊蹄丸、摩周丸とともに、第2レーダーが装備され、当時の車載客船全船がレーダー2台装備となった。
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