浅井氏の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:31 UTC 版)
詳細は「小谷城の戦い」を参照 天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請し、義景は2万の軍で駆けつけるが、織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めた。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、取って返して全軍を浅井氏に向けた。 浅井軍は信長の軍によって、一方的に勢力範囲を削られるのみであった。そして、ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれる。信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉を使者として送って降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。 8月27日、父の久政が自害し、9月1日には長政も自害した。享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。 『信長公記』では、8月28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされるが、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判明している。この感状において長政は、同年7月末に信長主導で行われた改元後の元号「天正」ではなく、足利義昭が主導して改元された前の元号「元亀」を使用している。これを信長に対する抵抗の意と解釈する説がある。 『信長公記』には、天正2年(1574年)の正月、信長が内輪の宴席において、薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。また、『浅井三代記』にはこれらの髑髏を杯(髑髏杯)にしたとある。しかし近代では髑髏杯にして信長が酒を飲んだというのは作り話とされる。 徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に従二位・中納言を追贈された。
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