浦賀来航とは? わかりやすく解説

浦賀来航

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 20:27 UTC 版)

黒船来航」の記事における「浦賀来航」の解説

1853年7月8日嘉永6年6月3日17時浦賀沖に現れ停泊した日本人初め見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍イギリス海軍帆船とは違うものであった黒塗り船体外輪船は、帆以外に外輪蒸気機関でも航行し帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ浦賀沖に投錨した艦隊旗艦サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、日本側から襲撃恐れ臨戦態勢とっていた。 浦賀奉行戸田氏栄は米艦隊旗艦サスケハナ司令長官旗を掲げていたため識別可能であったに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助派遣しペリー渡航将軍アメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握したサスケハナ乗艦するために中島は「副奉行」と詐称したが、ペリー側は幕府側の階級が低すぎるとして親書預けることを拒否した続いて7月9日嘉永6年6月4日)、浦賀奉行所与香山栄左衛門浦賀奉行称して訪ねブキャナン艦長アダムス参謀長およびペリー副官コンティー会見した。しかし対応は変わらず親書最高位役人にしか渡さないはねつけられた。香山上司相談するために4日猶予をくれるように頼んだが、ペリー3日なら待とう答え、さらに「親書受け取れるような高い身分役人派遣しなければ江戸湾北上して、兵を率いて上陸し将軍直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。 同日ペリー艦隊所属の各艦から1隻ずつの武装した短艇派遣して浦賀湊内を測量させた。この測量幕府側に威圧加えるという効果もたらした浦賀奉行は、当然ながら抗議した。その回答は、鎖国体制下の不平等な国際関係排除するという考えであり、日本に対して不平等な国際関を強いようとする考え含まれていた。7月11日嘉永6年6月6日早朝から測量艇隊は江戸湾内に20キロほど侵入し、その護衛ミシシッピ号がついていた。その行動の裏には、ペリーの「強力な軍艦江戸接近する態度示せば、日本政府幕府)の目を覚まさせ、米国にとってより都合のいい返答与えであろう」との期待があった。この行動幕府大きな衝撃を受け、7月12日嘉永6年6月7日)、「姑く耐認し枉げて其意に任せ速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から国書受領し返事長崎オランダ商館長通じて伝達するよう浦賀奉行井戸弘道訓令し、対応にあたらせた。 このとき、第12代征夷大将軍徳川家慶病床伏せており、国家重大事決定できる状態にはなかった。老中首座阿部正弘は、7月11日嘉永6年6月6日)に「国書受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論至り7月14日嘉永6年6月9日)にペリー一行久里浜上陸許し下曽根信敦率い幕府直轄部隊加え陸上川越藩彦根藩海上会津藩忍藩警備するなか、浦賀奉行戸田氏栄井戸弘道ペリー会見したペリーは彼らに開国促す大統領フィルモア親書提督信任状覚書などを手渡したが、幕府は「将軍病気であって決定できない」として、返答1年猶予要求したため、ペリーは「返事聞くために1年後再来航する」と告げた。ここでは文書受け渡しのみで何ら外交上の交渉行われなかった。日本側の全権である浦賀奉行戸田井戸2人一言発しなかった。 日本側は、会見終了して2、3日すれば退去するものと考えていたが、ペリー7月15日嘉永6年6月10日)にミシシッピー号に移乗し浦賀より20マイル北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み将軍充分な威嚇示してから小柴沖に引き返した艦隊7月17日嘉永6年6月12日)に江戸離れ琉球残した艦隊合流してイギリスの植民地である香港帰ったペリー本国政府訓令精神貫徹することに成功したアメリカ艦隊は、アメリカ独立記念日祝砲や、号令合図目的として、湾内数十発の空砲発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民その旨お触れ出てはいたが、最初砲撃によって江戸大混乱となった。やがて空砲だとわかると、町民砲撃音が響くたびに、花火感覚喜んだ伝えられる来航翌日には、浦賀には見物人集まり始め翌々日には江戸からも見物客殺到した佐久間象山吉田松陰見物赴いている。勝手に小船近くまで繰り出し上船し接触試みるものもあったが、幕府から武士町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに次第に不安が広がるようになった。 このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌詠まれた。上喜撰とは緑茶銘柄である「喜撰の上物という意味であり、「上喜撰を4杯飲んだだけだが(カフェイン作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか4杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船上喜撰) のために国内騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。 嘉永6年来航艦艇概要以下の通りである。 艦名艦種建造トン数乗組員機関出力備砲サスケハナSusquehanna 蒸気外輪フリゲート 1850年 積載量2,450トンbmトン排水量3,824英トン 300 420NHP795IHP 150ポンドパロット砲x29インチダルグレン砲x1212ポンド砲x1 ミシシッピMississippi 蒸気外輪フリゲート 1841年 積載量1,692トンbmトン排水量3,220英トン 260 434NHP650IHP 10インチペクサン砲x88インチペクサン砲x2 サラトガSaratoga 帆走スループ 1843年 積載量882トンbmトン2608インチ砲x432ポンドx18 プリマスPlymouth 帆走スループ 1844年 積載量989トンbmトン2608インチ砲x832ポンドx18

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