渡仏
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「アンドレイ・マキーヌ」の記事における「渡仏」の解説
1987年、30歳のときに非合法で渡仏し、政治亡命の申請をして認定された。1991年に最初の帰化申請をしたが却下され、1996年、『フランスの遺言書』がフランスの権威ある文学賞を受賞した翌年にようやくフランス国籍を取得した。 渡仏当初はパリ20区のベルヴィル地区(フランス語版)で小さいアパートを借りて不安定な生活を送っていた。パリ政治学院、パリ高等師範学校、パリ高等商業学校(フランス語版)(ISC、現ESCP EUROPE)でロシア文学や文体論の講座を担当しながら、哲学(ドイツ哲学、哲学史を含む)と文学(言語学、言語理論を含む)の研究を進め、1992年にソルボンヌ大学にロシア人小説家(ノーベル文学賞受賞作家)イヴァン・ブーニンに関する博士論文「I・A・ブーニンの散文作品 - 郷愁の詩学(La prose de I. A. Bounine : la poétique de la nostalgie)」を提出して博士号を取得した。 渡仏当初から小説を書き始め、出版社に原稿を送ったが次々と断られた。そこで、ロシア人作家が書いた小説をフランス人翻訳家が翻訳したものと見せかけるために、翻訳家名として「フランソワーズ・ブール(Françoise Bour)」と「アルベール・ルモニエ(Albert Lemonnier)」を使用し、1990年に処女作『ソ連のある英雄の娘』(邦題『たった一つの父の宝物 - あるロシア父娘の物語』)を「アンドレイ・マキーヌ著、フランソワーズ・ブール訳」として、1992年に第二作『失墜した旗手の告白』を「アンドレイ・マキーヌ著、アルベール・ルモニエ訳」として発表した。
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渡仏
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1891年(明治24年)、フランスのパリ在住の叔母(父の妹)が、当時16歳の美禰を養女にと申し出た。叔母には子がおらず、自身も老いたので、身寄りが欲しかったのである。当時の相原家は母、美禰、妹の3人であったが、妹は病弱のため、母のもとを離れるわけにはいかなかった。 母は当初、「貧乏でも母子が一緒の方が幸福」として反対したものの、結局は娘の将来を考慮し、義妹に託した。翌1892年(明治25年)、美禰は駐日イギリス特命全権公使ヒュー・フレイザーの妻メアリーと共に、フランスへ渡った。美禰はパリでカトリックの洗礼を受け、聖王ルイ9世と聖母マリアにちなんで、マリールゥヰズ(マリールイズ)の洗礼名を授けられた(ルゥヰズLouiseはルイLouisの女性形)。
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渡仏
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明治4年(1871年)9月、太政官正院権少外史、明治5年(1872年)1月17日、左院中議生となり、27日、左院視察団として西岡逾明・高崎正風・小室信夫・安川繁成と横浜を出航、1872年(明治5年)3月、フランスに到着し、国務院などの政治制度を視察した。渡欧中、明治5年3月21日(1872年4月28日)付で日本基督公会に転入会した。 視察団では会計を担当したが、旅費を預金していた南貞助のナショナル・エージェンシーが倒産して金策に奔走し、胃病を患った。1873年(明治6年)5月から弁理公使鮫島尚信の下で在フランス日本公使館に勤務するようになり、7月に他の視察団が帰国した際にも病気を理由に帰国せず、1874年(明治7年)3月8日、正式に外務三等書記官となった。1877年(明治10年)、パリ万国博覧会の事務を行った。 1880年(明治13年)12月4日、尚信が死去すると、5日フランス臨時代理大使に就任し、ベルギー・スペイン・ポルトガルも兼轄し、井田譲の着任まで務めた。1881年(明治14年)4月1日、パリ国際電気博覧会(英語版)日本帝国政府委員を命じられた。
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渡仏
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1917年にフランス文学を勉強するために再び渡仏し、第一次世界大戦中はフランスで志願して救護・看護活動にあたった後、1918年から19年までセルビアのアメリカ赤十字社に勤務した。この間、あるとき、フランス国立図書館で探していた雑誌がオデオン通り(フランス語版)7番地の「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」書店にあることを知った。1915年にアドリエンヌ・モニエが創設した書店で、ポール・ヴァレリー、ヴァレリー・ラルボー、レオン=ポール・ファルグ、ジュール・ロマン、ポール・フォール(フランス語版)、アンドレ・ジッド、ルイ・アラゴンら前衛作家が集まる場所でもあった。ビーチはそうしたことは何も知らなかったが、早速「本の友の家」を訪れ、モニエに会う機会を得た。モニエからフランスの作家の話を聞いているうちに、再び書店を開きたいという気持ちが湧き起こり、今回はフランスでアメリカの作家を紹介したいという、より具体的な展望を持つようになった。
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渡仏
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「スコラスティック・ムカソンガ」の記事における「渡仏」の解説
資格取得後、国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事を得て、念願どおり、農村の女性たちの支援にあたった。ギテガの農村で5年ほど仕事をしているときに、文化省からの依頼でブルンジの伝統について調査していたフランス人の男性に出会って結婚、二子をもうけた。夫の転勤でジブチ共和国に越し、1992年に夫の帰国に伴って渡仏。夫の故郷ノルマンディー地方のエルヴィル=サン=クレール(カルヴァドス県)に居を定めた。 ムカソンガは引き続き社会福祉士として働くことを希望したが、ブルンジで得た資格はフランスでは通用しなかったため、あらためて社会福祉士養成所(IFTS)で勉強して受験し、資格を取得した。1996年から翌97年までカーン大学(フランス語版)の学生の支援をし、1998年から現在に至るまで、家族政策の策定に関わる全国家族協会連合(フランス語版)を構成するカルヴァドス県家族協会連合の社会福祉士を務めている。 また、この一環として、カルヴァドス県の県庁所在地カーンから10キロほどのところにある海辺の町ウィストレアム(フランス語版)で移民の支援をし、このために行政と衝突しながらも何度か新聞に記事を掲載するなどして地元の支持を取り付けた。ウィストレアムの移民は、ここから英仏海峡を越えてイギリスに渡ろうとする若者たちで、ムカソンガは西欧に対する憧れや西欧人の優越性の概念は批判しながらも、これは植民者によって植え付けられた考えであり、簡単に捨て去ることができるものではない、しかも移民たちには故郷に残してきた家族との絆がある、どれほど辛い生活を強いられても希望を捨てることは「許されないのだ」と、1973年にブルンジに着いたとき、故郷の家族の運命を背負っていた自分自身の姿に重ねている。
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渡仏
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「ジョルジュ・ポリツェル」の記事における「渡仏」の解説
同年、18歳のときに、ウィーン(オーストリア)に数週間滞在した後に渡仏。ウィーンでは、当時フランスではまだほとんど知られていなかったジークムント・フロイト、フェレンツィ・シャーンドルらの精神分析のセミナーに参加し、後の研究のためにドイツ語の著書を購入した。同年、ソルボンヌ大学に入学。プロテスタント学生協会(Association des étudiants protestants)の支援を受け、さらにソルボンヌ大学の法学教授でオーストリア=ハンガリー帝国研究を専門とするシャルル・アイゼンマン(フランス語版)の取り計らいで公教育省の奨学金を受けた。また、翌1922年度には、ベルギー系ユダヤ人金融業者ヒルシュ男爵(Maurice de Hirsch)が創設したユダヤ植民協会(英語版)の奨学金を受けることができた。 ソルボンヌ大学で合理主義の数理哲学者レオン・ブランシュヴィックに師事した。ポリツェルはカント、ディドロ、ヴォルテール、デカルトら理性主義・啓蒙主義・合理主義哲学の基礎を築いた哲学者から多くを学び、哲学界・大学の哲学教育において大きな影響力をもっていたアンリ・ベルクソンについては一貫して思想的のみならず政治的な観点からも批判的であった(後述)。学位取得のために必要な心理学の試験を受け、精神医学研究において中心的な役割を担うサン=タンヌ病院(フランス語版)の講義を受講した。この経験によってさらに心理学への関心を深め、フロイト研究を進めた。1923年に哲学の学士号を取得。翌年に高等研究学位(Diplôme d'études supérieures)を取得した。 同年2月17日に、講義で知り合った優秀な学生カミーユ・ノニー(Camille Nony)と結婚し、翌1924年に第一子ジャンが誕生。ポリツェルは同年12月21日にフランス国籍を取得した。1927年2月16日には第二子セシルが生まれた。この後、カミーユと離婚し、1931年3月5日に後にマイ・ポリツェル(Maï Politzer)と呼ばれることになるマリー・マチルド・ラカルド(Marie Mathilde Larcade)と再婚し、一子ミシェルをもうけた。マイは助産婦であったが、病に倒れて仕事を断念し、後に共産党員としてポリツェルと活動を共にすることになる。
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渡仏
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「アンナ・ラングフュス」の記事における「渡仏」の解説
肉親をすべて失ったラングフュスは、しばらくルブリンで演劇を学んだ後、翌1946年に渡仏を決意した。当初はリュエイユ=マルメゾン(イル=ド=フランス地域圏、オー=ド=セーヌ県)のユダヤ人の孤児院で数学を教えた。1948年、10歳年長のアーロン・ラングフュスと結婚し、同年に第一子マリアが生まれた。一家はパンタン(イル=ド=フランス地域圏、セーヌ=サン=ドニ県)に住み、やがてサルセル(イル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ドワーズ県)に越した。アーロンは同じユダヤ系ポーランド人で、すでにポーランドにいた頃からの知り合いであった。二人はポーランド語のほか、フランス語、イディッシュ語、ドイツ語、英語を話したが、家庭では主にフランス語であった。 渡仏後も演劇を勉強し、ユダヤ人雑誌『ラルシュ(フランス語版)』(方舟)に評論を発表した。1953年に最初の戯曲『忌み嫌われた者』を執筆し、1956年にサッシャ・ピトエフ(フランス語版)監督によりアリアンス・フランセーズ劇場で上演された。なお、ラングフュスはこの作品のほか4作の戯曲(『アモス ― 偽りの経験』、『報酬』、『至福の夜』、『最後の証人』)を執筆したが、いずれも未刊行である。 1959年、フランスに帰化。 1960年に最初の小説『塩と硫黄』を発表し、スイスのシャルル・ヴェイヨン文学賞(フランス語部門)を受章した。 1962年に発表した第二作『砂の荷物』は同年、ゴンクール賞を受賞し、世界15か国語に翻訳された。ラングフュスは、エルザ・トリオレ(1944年)、ベアトリ・ベック(フランス語版)(1952年)、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1954年)に次ぐ4人目の女性受賞者である。 1965年に第三作『飛べ、バルバラ』を発表。 1966年、心筋梗塞で死去、享年46歳。第四作を執筆中であった。
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渡仏
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1948年、19歳のときに、教育学の専門家であった父が、設立されたばかりの国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の任務で渡仏することになり、動乱を逃れるために同行。父が任務を終えて帰国した後も、一人、パリに残ることにした。とはいえ、大学を卒業していないうえに、フランス語は一言も話せなかった彼は、レストランの給仕、店舗の発送係などの職を転々とした。当時付き合いがあったのは中国人だけであったが、みな裕福な家庭の子息であった。再び渡仏した父の取り計らいで、しばらくはユネスコの奨学金を受けることができた。母と兄弟も渡仏し、再会を果たしたが、まもなく、父がメリーランド大学の中国研究所に職を得て、家族とともに渡米することになった。チェンは再び一人、フランスの残る決意をした。
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渡仏
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「フィリッポ・ブオナローティ」の記事における「渡仏」の解説
1789年からのフランス革命に勇気付けられ、ピサではその急進的な主張に対する監視も厳しかったことから、フランス領となって間もないコルシカ島へと旅立ち、革命運動に参加。彼はそこで「コルシカ愛国新聞」(Giornale patriottico di Corsica)紙上で主張していた革命的なメッセージを広めることに勤めた。ちなみに、イタリア語の論文で公にフランス革命を支持したものはこれが初めてであった。 コルシカ島は、ルソーが考える理想社会の姿に最も近いとされた地であった。この地で彼はブオナパルテ(ボナパルト)家と親しくなり、親英派のパスカル・パオリとは敵対する活動を行った。なお、一族からはナポレオン・ボナパルトが出ていたことから、この縁が後に彼の危機を救うこととなる。 その後、隠密任務でイタリアへ潜入し、次いでイギリスに奪われたカリブ海のマルティニーク島サン=ピエールへの遠征隊に同行。さらに初期のトゥーロン遠征にも加わった。 1790年7月に「聖職者民事基本法」 を成立させたが、教皇はこれを激しく断罪。ブオナローティは暴行を受けたうえ放逐されたが、コルシカの総評議会の嘆願により放免された。彼は1791年に島を追放されて故郷のトスカーナに戻るが、そこで逮捕され牢獄に送られた。1786年にフリーメイソンの一員となったことが原因とみられる。 1793年にパリへと旅立った彼は、そこでジャコバン・クラブのメンバーとなる。ロベスピエールの信奉者であった彼は、革命への貢献が評価され、1793年5月27日の法令でフランスの市民権を得て帰化。同年6月、サルデーニャ王国西岸のサン・ピエトロ島からフランスへ渡り、ニースにて国外追放されたイタリアの革命家たちを組織化する任に就いた。 1794年4月、ブオナローティは政府の命により、オネーリアのフランス軍占領地帯へ派遣された。ここで彼は、パンの品質改良を行ったり、小中学校や教育委員会の創設を推進。さらに、疫病予防のため街の清掃を行った。また、住民の抵抗を排除して「1793年憲法(ジャコバン憲法)」を強制することに尽力した。
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