渡日
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1922年冬、朴広海へのまたいとこからの紹介状と、密教系大学への朝鮮仏教会からの推薦状を持参して来日し、大阪市梅田の朴広海を訪ねた。朴広海は夜間学校に通いながら、朝鮮人の経営する薬局で働いていた。朴は金天海を自分の部屋に寄宿させた。2週間後、金と朴は、梅田駅で、40人ほどの両班階級の観光団と出会った。観光団は、日韓併合に尽力したことにより、同年3月に東京上野の不忍池で開催される平和記念東京博覧会に参加する予定だった。金天海は、観光団の人に、朝鮮独立の意識を持たせなければならないと考え、朴広海と協議した。金と朴は、金を出し合って学生服を購入し、朴の滞納していた学校の授業料1か月分を支払って学生証を入手し、朝鮮人留学生となった。金と朴は、観光団の滞在していた「いばらぎ旅館」を学生服を着て訪れ、観光団を説得した。7人が説得に応じ、「東京には行かない」と宣言した。7人は仮病を使って東京行きを取り止めたため、大阪府衛生課や警察などが7人を説得した。その過程で、7人が金天海から説得されたことが発覚し、金天海に逮捕状が出された。金は、東京に逃げた。その後、金天海は、日本大学社会科に入学した。日本大学社会科には、三・一独立運動(万歳事件)に参加した者などが在籍していた。また、李雲洙(イウンス、1899〜1938、「朝鮮新聞」発行人)も日本大学専門部に在籍していた。 同年春、朴広海も東京に出た。朴は東京駅で巡査に拘束されたが、金天海を訪ねる予定であることを話すと、巡査が電話をして調べ、すぐに金の住所を教えてくれた(警察は、多くの朝鮮人の住所を調査・把握していた)。朴は、金が住む下谷の長谷惣一宅を訪ねて、金と再会した。金天海は共産主義者になっており、労働者のストライキを見たり、堺利彦や山川均の書物を読むなどしていて、「朝鮮が独立するためには、日本の帝国主義を打倒しなければならない。打倒するためには、日本人労働者と結束して、革命を起こすしかない」という結論に達していた。金と朴は、長谷惣一宅で共同生活を始めた。 同年7月15日、暁民会、水曜会、建設者同盟などが連合して、日本共産党(第一次共産党)が結成された。同月、信濃川朝鮮人虐殺事件が発生した。これを受け、在日朝鮮人は、在日本朝鮮労働者状況調査会を結成し、在日朝鮮人労働者の実態調査を始めた。朴広海は、同会に参加し、茨城県、長野県、群馬県、愛知県の飯場を、実際に働きながら調査した。 同年11月、同調査会参加者を中心にして、東京朝鮮労働同盟会が結成された。同会の実行委員に就任した金天海は、東京淀橋の同会本部に移り住み、階級闘争を始めた。 1923年5月、朴広海は東京を離れ、ソビエト連邦を目指した。朴は、故郷の咸興から豆満江の中国との国境を抜け、満州を経て、ソ連に密入国した。朴は資金稼ぎのために阿片栽培を手伝いながら、ソ連を見聞した。 同年、朝鮮共産党日本総局東京西南部ヤチェイカ(ロシア語で細胞の意)の細胞員となった。 1924年3月16日、東京朝鮮労働同盟と日本労働総同盟は、「関東大震災被虐殺日支労働者合同追悼会」を開催した。出版社従業員組合共済会、芝浦労働組合、自由労働連盟など日本人労働者350人も出席した。金天海は、朝鮮人代表として、日本労働総同盟に対して、「日本政府に朝鮮人虐殺を抗議しよう」と提案した。日本労働総同盟幹部は、金天海の提案に賛同しなかった。その後、金天海は、近代的工場労働者を組織するために、東京南部、京浜工業地帯で活動した。 1925年1月、思想団体・一月会が結成された。金天海は一月会に所属した。一月会は、朝鮮・内地で分立する社会運動に対して、絶対中立の立場から、積極的に大同団結を促進することを目標とした。福本和夫が主張した「福本イズム」を信奉する者からは、「改良主義的右傾化」だと批判された。 同年2月、全国の10数の朝鮮人労働組合団体が大同団結し、在日本朝鮮労働総同盟(略称は在日朝鮮労総)が結成された。同年7月、金天海は、在日朝鮮労総の神奈川県の地方組織として、神奈川朝鮮合同労働会を結成し、常務執行委員に就任した。 同年、横浜市のメーデー準備会に、朝鮮労働組合代表として参加し、「請負制度撤廃」などの朝鮮人労働者の要求を、メーデーのスローガンに加えた。その後、神奈川県厚木市に移り住み、砂利採取労働者へのオルグを行なった。根府川で、朝鮮人労働者が、関東大震災復興事業として砂利採取で働いていたが、賃金が未払いだった。金天海は発注先の復興局と話し合い、さらに鉄道大臣に直談判して、工事代金を支払わせた。 同年、京城で、在日朝鮮人留学生が設立した思想団体黒濤会 のメンバーだった金燦(本名は金洛俊)、金若水(本名は金科全)らが朝鮮共産党を再建した。 1926年、共産主義系の朝鮮労働青年団の指導者となった。このころ、在日朝鮮労総の朴相勗とともに東京や神奈川でオルグ活動を行なった。同年、神奈川朝鮮合同労働会中央委員、関東朝鮮労働組合連合会委員長に就任した。 同年12月10日、神奈川県足柄上郡松田町で、町役場と警察署が内鮮融和講演会を開き、融和派の3人の朝鮮人が公演を行なうことになっていた。融和に反対する朝鮮人飯場の親方6人が乱入し、公演予定の朝鮮人3人を殴打した。内鮮融和講演会は中止になった。警察は、6人の朝鮮人親方を逮捕して取調べた結果、金天海が朝鮮人親方をオルグしていたことを突き止め、金天海は小田原町弁財天の旅館「北辰館」で逮捕された。 1927年1月10日、小田原区裁判所で金天海の第1回公判がおこなわれ、東京、神奈川、静岡などから、朝鮮人飯場の親分40人以上が、傍聴にやってきた。第2回公判でも、30数人の朝鮮人の親分が、傍聴に訪れた。警察は公安担当者全員で法廷内外を警備した。金天海が控訴して横浜に送致されることになると、30人の朝鮮人親分が同行した。同年2月、朝鮮共産党日本総局が設立された。
※この「渡日」の解説は、「金天海」の解説の一部です。
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