みなもと‐の‐さねとも【源実朝】
源実朝
源実朝
源実朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 02:00 UTC 版)
源 実朝(みなもと の さねとも、旧字体:源 實朝󠄁)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍(鎌倉殿)
注釈
- ^ 頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男。
- ^ 産所は鎌倉の名越浜御所であり北条時政の屋敷といわれる[1]。
- ^ 『吾妻鏡』建仁3年9月15日条には征夷大将軍補任の宣旨が下されたと記されているが、『猪隈関白記』9月7日条には内大臣藤原隆忠を上卿として従五位下征夷大将軍補任の除目が行われて後鳥羽上皇が「実朝」という名を定めたと記されており(同一の補任に対して除目と宣旨が同時に行われることはない)、両者の記事は矛盾しており、同時代史料である後者が正しい可能性が高い[2]。
- ^ 実朝の婚姻は、頼家の母方の北条氏と妻方の比企氏が衝突した比企能員の変の翌年のことであり、坂井孝一は、義兼の娘は時政の前妻との子であり政子・義時と同母妹であることから、牧の方とその子政範を寵愛し政子・義時とは利害が対立する時政としては許容できなかったため、将軍の権威を上げ母政子の地位も上がる都の貴人で双方妥協したと思われ、実朝の京都・貴族志向の表われとは解することは出来ないとしている。
- ^ ここでいう「侍」とは、位階で言えば六位に相当する諸官衙の三等官を指し、御家人たちはこの身分に属していたが、北条氏の被官は御家人の家来にすぎず、「侍」身分とは区別される身分である。つまり、義時は自分の郎従だけを特別扱いして欲しいと望んだ。
- ^ しかし後世、北条氏の家人は御内人と呼ばれ、幕府で権勢を振るうこととなる。
- ^ それまでは北条義時・時房・大江親広の3人が固定で、中原師俊・仲業・二階堂行光ら吏僚の中から2人が加わっていたが、さらに大江広元・源仲章・源頼茂・大内惟信が新たに加わった。
- ^ 上横手雅敬や河内祥輔は、この会話を実朝が男子誕生を断念してしかるべき家から後継者を求める意思を示し、義時にその伝言を求めたとする解釈を採る。
- ^ 義時が目の前で発生した将軍殺害を防げなかった失態を隠蔽するため、現場にいなかったと『吾妻鏡』が曲筆したのではないかとする説がある[7]。
- ^ この歌は『吾妻鑑』以外には『六代勝事記』にしか見えず、菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」に類似する。これらの点から、実朝は梅の歌をしばしば詠むのを知っていた『六代勝事記』の作者が、歌人としての実朝を悼み、急速に右大臣になった実朝と道真を重ね合わせて代作し、『六代勝事記』を原史料として用いた『吾妻鑑』が惨劇の予兆としてあえて取り込んだ歌とする説もある[8]。
- ^ 大銀杏については『吾妻鑑』に記載がなく後世の創作とする説もある。
- ^ 北条義時黒幕説は古くは新井白石が『読史余論』で唱えており、代表的なものとして龍粛[9]、安田元久[10]などがいる。
- ^ 三浦義村黒幕説は1964年に永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認め[11]、大山喬平[12]、上横手雅敬[13]、美川圭[14]などが支持している。
- ^ 北条・三浦ら鎌倉御家人共謀説は五味文彦[15]が唱え、本郷和人[16]が支持している。
- ^ 後鳥羽上皇黒幕説は谷昇が提唱している[17]。
- ^ 公暁単独犯行説を取っているのは、山本幸司[18]、永井晋[19]、坂井孝一[20]、高橋秀樹[21]、矢代仁[22]、呉座勇一[23]、山本みなみ[24]など。
- ^ 大江親広、大江時広、中原季時、安達景盛、二階堂行村、加藤景廉、以下百余名。
- ^ 『日本歌学大系』第四巻に収録された『愚見抄』に「鎌倉右府の歌ざま、おそらくは人麿、赤人をもはぢ難く、当た世不相応の達者とぞ覚え侍る(360頁)」、『愚秘抄』に「鎌倉右大臣公の詠作は、まことに凡慮の及ぶべきさかひにもあらざるかと、ゆゆしくぞ覚え侍る。柿本、山辺の再誕とは是をや申すべく侍らん。(294頁)」とある。
- ^ 『俳諧一葉集』の言葉。小林秀雄「実朝」の冒頭に同文が引用されている。
出典
- ^ 『吾妻鏡』建久3年7月18日条
- ^ 北村拓 2005, pp. 137–194.
- ^ 山本みなみ 2020, pp. 332–340.
- ^ a b 山本みなみ 2021, pp. 168–184.
- ^ 上横手雅敬 2006, p. [要ページ番号].
- ^ 山岡瞳 2019, pp. 96–97.
- ^ 平泉隆房「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号、1990年
- ^ 坂井孝一 2014, pp. 261–264.
- ^ 龍粛 1957, p. [要ページ番号].
- ^ 安田元久 1961, p. [要ページ番号].
- ^ 石井進 1965, p. [要ページ番号].
- ^ 大山喬平 1974, p. [要ページ番号].
- ^ 上横手雅敬 1990, p. [要ページ番号].
- ^ 美川圭 2006, p. [要ページ番号].
- ^ a b 五味文彦 1979, p. [要ページ番号].
- ^ 本郷和人 2019, p. [要ページ番号].
- ^ 谷昇 2005, p. [要ページ番号].
- ^ 山本幸司 2001, p. [要ページ番号].
- ^ 永井晋 2010, p. [要ページ番号].
- ^ 坂井孝一 2014, p. [要ページ番号].
- ^ 高橋秀樹 2015, p. [要ページ番号].
- ^ 矢代仁 2015, p. [要ページ番号].
- ^ 呉座勇一 2021.
- ^ 山本みなみ 2021.
- ^ 鎌田五郎 1983, p. [要ページ番号].
- ^ 斎藤茂吉 1926, p. [要ページ番号].
- ^ 吉本隆明 1990, p. [要ページ番号].
- ^ 正岡子規『歌よみに与ふる書』
- ^ 安田元久 1961, p. 180.
- ^ 『吾妻鏡』建保6年8月20日条。
- ^ 五味文彦 2015, p. [要ページ番号].
- ^ 坂井孝一 2014, p. 229.
- ^ 三木麻子 2012, p. 51.
- ^ 三田武繁 2017, p. 18.
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