琉王優貴
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琉王 優貴(りゅうおう ゆうき、1945年2月25日 - 2015年6月28日)は、沖縄県那覇市出身(出生地は大分県中津市)で、朝日山部屋に所属した元大相撲力士。 本名は島 武光(しま たけみつ)→神田 武光(かんだ - )。現役時代の体格は176cm、130kg。得意手は突き、押し。最高位は西前頭筆頭(1973年9月場所)。沖縄県出身者初の関取として記録に残っている。
- ^ 後に自衛隊幹部と同席した時この話を打ち明けたが、そんなことはないと笑って否定された。これは当時の沖縄県本籍者も、戦時中から引き続き日本国民とされていたためであり、実際に当時の自衛隊の中にも沖縄県出身者は存在した(琉球住民、第1混成団を参照のこと)。
- ^ 琉王が先代未亡人に後継指名された理由として、トンガ人力士6人を本気で関取として育てるためにも同じ外国人出身者として彼らの苦労が理解できる琉王が必要だと判断され、後援会もそれに付き従った。しかし当時既に朝日山から独立していた身であった大鳴戸(元関脇・高鐵山)が、「そんなのよりもっと良いのがいる。板井圭介君を知っているか?」と当時実業団の英才であった板井の勧誘を仄めかすと、板井の実力と才能を評価する後援会の一同は一気に若二瀬側にすり寄り、先代未亡人側は後継者争いに敗北した。その後、協会幹部が実業団相撲に低評価を下したことが朝日山部屋関係者の耳に入ったことで朝日山部屋の板井獲得は立ち消えとなり、結局板井は大鳴戸部屋へ入門した。
- ^ そもそも「トンガ騒動」を決定づけた大鳴戸は自身の暴露本で「朝日山部屋の後援者がトンガの油田採掘の利権を狙っていてその為に駆り出されたに過ぎない」とトンガ人力士評価するしない以前に勧誘の経緯を批判している。また、トンガ人力士達は日本語が通じず寒さに弱くちゃんこにもなじめない上に日曜日は安息日(トンガ人はキリスト教徒)を要するなど特別待遇をせざるを得なかった点で力士としても不適格だったと切り捨てた評価をしており、板井の勧誘を仄めかすと一気に若二瀬側の方へ後援会がすり寄ったのはそれだけ板井が有望であり、油田利権を含めてもトンガ人たちが期待薄だったという論拠になり得る。
- ^ 琉王さん死去 県出身初の幕内力士、70歳 琉球新報 2015年7月1日閲覧
- ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
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