いくはら‐あきひろ【生原昭宏】
生原昭宏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 18:11 UTC 版)
生原 昭宏(いくはら あきひろ、1937年1月20日 - 1992年10月26日)は、日本の野球関係者[1]。メジャーリーグ球団職員。
注釈
- ^ 鈴木は昭和初期からアメリカとの交流に努めており、生原にドジャースのオーナーであったオマリーを紹介した[6]。
- ^ 当時は2年間の自費留学の予定だったが、27年間にわたって働いた[7]。
- ^ 巨人は長嶋茂雄(生原より1歳年上)が新監督に就任した1975年春からベロビーチで春季キャンプを開催していた[6]。また、生原は後に現場を離れた長嶋の妻に対し、「長嶋さんが監督に復帰したら、(巨人の)コーチとして迎えていただける。そのときこそドジャースを去る時だ」と語っていた[6]。
- ^ 中日の星野仙一監督は1987年の沖縄キャンプで臨時コーチとして生原を招聘し、それ以降も生原をコーチとして招聘しようとしたが、「その度に『彼を独り占めしちゃいけない』と思いとどまったんだ」と回顧している[6]。
- ^ 早大時代の監督・石井連藏と南カリフォルニア大学監督のラウル・デドーを引き合わせて日米大学野球選手権の創設を実現した[6]。
- ^ 中日の選手では山本昌や山﨑武司が若手時代に生原の下で野球留学した[10]。
- ^ 死去当時は癌で入院中で、その11日前(10月15日)には親交のあった長嶋茂雄が翌1993年から巨人の監督に就任する旨を電話で生原の弟に報告していた[6]。
- ^ 同賞は創設から10年間、少年を対象としてIBAが主催する3大会に参加した選手の中から最も優れた選手に贈呈された[8]。
出典
- ^ a b c d “殿堂入りリスト 生原 昭宏(アイク生原) いくはら あきひろ”. 野球殿堂博物館. 公益財団法人野球殿堂博物館. 2020年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』1992年10月27日朝刊社会面25頁「【ロサンゼルス26日共同】ドジャース会長補佐 中日ナインとも縁 アイク生原氏死去」(中日新聞社)
- ^ “山本昌氏 野球殿堂入り 星野氏、アイク氏に捧ぐ栄誉「たくさんの人に支えられた」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年1月15日) 2023年1月24日閲覧。
- ^ a b c 『朝日新聞』1997年4月7日西部夕刊第一社会面7頁「赤鬼監督(偏西風)」(朝日新聞西部本社 行橋支局長:有馬護宏)
- ^ a b c 『中日新聞』2015年11月1日朝刊言論面4頁「ニュースを問う 秦融(編集委員) 山本昌と恩師アイク生原氏 背中押し続けた言葉の力」
- ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』2006年1月24日東京夕刊第一総合面1頁「(ニッポン人脈記)野球、海を渡る:2 メジャー結ぶ「陰の立役者」」(朝日新聞東京本社 記者:安藤嘉浩)
- ^ a b c 『東京新聞』2013年5月29日朝刊特報第二面23頁「アイク生原氏の評伝連載 故郷・福岡 「日米野球交流を教材に」 ドジャース会長補佐 五輪採用に奔走」(中日新聞東京本社)
- ^ a b c 『中日新聞』1993年3月17日朝刊第二運動面22頁「脱衣室」(中日新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』2006年1月30日東京夕刊第一総合面1頁「(ニッポン人脈記)野球、海を渡る:6 復活を果たした「魔法の手」」(朝日新聞東京本社 記者:西村欣也・安藤嘉浩)
- ^ 『朝日新聞』2007年8月30日名古屋朝刊第一地方面31頁「(大リーグ道中記)マサも縁、アイク生原氏 /愛知県」(朝日新聞名古屋本社 ドラ番記者・坂名信行)
- ^ 『中日新聞』1992年11月1日朝刊第一運動面25頁「故アイク氏特別表彰 日本野球機構」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』2002年1月12日朝刊第二運動面26頁「8氏が野球殿堂に 山内一弘氏 鈴木啓示氏 福本豊氏 田宮謙次郎氏 中沢不二雄氏 生原昭宏氏 正岡子規 フランク・オドール氏」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』1990年1月27日朝刊第一運動面23頁「【ゴールドコースト(豪州)二十六日安藤特派員】中日豪州トレ 首脳陣ら現地入り 一枝コーチ満足げ お目付け参上で選手ピリッ 生原氏 さっそく指導」(中日新聞社)
- ^ “長嶋一茂 「とにかく厳しかった」恩師の死に目に会えず後悔「会えなかったのが今でも心残りで」(スポニチアネックス)”. Yahoo!ニュース. 2023年10月28日閲覧。
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