さるがくだんぎ【申楽談儀】
世子六十以後申楽談儀
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世子六十以後申楽談儀(ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ)、通称『申楽談儀』は室町時代に成立した、世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書、芸道論。
- ^ 表章「世阿弥と禅竹の伝書」(岩波書店『日本思想大系 世阿弥 禅竹』解説)
- ^ 『四座役者目録』
- ^ 猿楽の創めは神代、天の岩戸の前でアメノウズメが舞った神楽であると世阿弥は語っている(『風姿花伝』)。
- ^ 事実、この直後に、増阿弥が世阿弥を犬王、喜阿、観阿弥のいいとこ取りであると批判したことが載せられており、世阿弥自身も先人の芸から参考にした点などを挙げている。
- ^ 同「世阿弥と禅竹の伝書」。また同じ解説に、後に大鼓方の観世小次郎信光が多くの能を作ったことから、座衆が台本を創作し大夫を守り立てるのが観世座の伝統であったとある。なお、元能の作品は現在に伝えられていない。
- ^ それまでは翁舞は、本書で「宿老」と呼ばれる専門の舞手によって舞われており、彼らこそ、本来神事芸能であった翁猿楽の本流を継ぐ集団であり、娯楽としての猿楽を行う役者たちはあくまでそれに付随するものであった。しかし大夫に翁の舞手が移ったことで、この集団は歴史に埋没することになる。
- ^ なおここで観阿弥が座を建てたときのことについて触れられているが、文中の「伊賀小波多にて、座を建て初められし時」の解釈を巡り、文面どおりに伊賀小波多で観阿弥が座を立てたとみるか、「伊賀小波多にて」を直前の翁面についての解説が本文に混入したとして、伊賀での創座はなかったとみるかの両論が存在する(上記『世阿弥 禅竹』補注)。
- ^ 同「世阿弥と禅竹の伝書」
- ^ 以下、表章『能楽史新考』「『申楽談儀』解説」を参照。
- ^ 「能楽画報」昭和10年10月号
- ^ 『世阿弥十六部集』序引の注記参照。
[続きの解説]
「世子六十以後申楽談儀」の続きの解説一覧
- 1 世子六十以後申楽談儀とは
- 2 世子六十以後申楽談儀の概要
- 3 写本
- 4 翻刻
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