画家修業と、カンディンスキーとの出会い(1901)
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「ガブリエレ・ミュンター」の記事における「画家修業と、カンディンスキーとの出会い(1901)」の解説
1901年、ミュンターはミュンヘンへ移った。しかしこのとき、その地でも女性はまだ公の芸術院への入学を許されていなかった。それゆえミュンターは画家修業を女流芸術家協会の付属画学校初級教室でつづけ、同年冬にヴィルヘルム・フュスゲンとヴァルデマル・ヘッカーによる小さな、しかし進歩的な芸術学校「ファランクス」に移った。そこではカンディンスキーも教鞭をとっていた。この学校においてミュンターは、アンジェロ・ヤンクのクラスでモデルによる肖像デッサンを6ヵ月間学ぶが、その修業期間が終わる前に裸体画のクラスに進み、ついでヴィルヘルム・フュスゲンの彫刻教室へ移った。彼のもとで学んだ後、ミュンターは裸体画教室夜間部に通い、そしてカンディンスキーの絵画教室へと移る。カンディンスキーとの出会いはミュンターの人生を大きく方向づけた。彼女はカンディンスキーのもとで初めて、芸術が技能とは性格を異にする何者かであることを悟り、画家の内面的精神をフォルムによって絵画に表現することを学んだのである。
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