画家時代
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黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った。1927年に京華中学校を卒業し、東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年に油絵『静物』が第15回二科展に入選した。1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を学んだ。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し、1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり、終戦まで徴兵されることはなかった。 やがて非合法活動に身を投じ、無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する」ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、1932年春までに非合法活動から身を引いた。その後は丙午が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した。丙午は須田貞明の名で活動弁士となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、トーキーの普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、1933年7月に伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった。1934年に一家は恵比寿に転居し、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた。
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画家時代
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青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。
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