畿内とは? わかりやすく解説

き‐ない【畿内】

読み方:きない

《「畿」は王城から500四方の地の意》

【一】皇居に近い地。

【二】京都に近い国々山城大和河内・和泉摂津の5か国。五畿内。きだい。

畿内の画像
畿内の5か国

畿内 (きない)

旧国名では「山城やましろ]」「大和[やまと]」「河内[かわち]」「和泉[いずみ]」「摂津[せっつ]」の5国のことです。今の大阪奈良・京都の一部にあたります。


畿内

読み方:キダイ(kidai), キナイ(kinai)

古代の都の近郊にある行政の中心地域。


畿内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/27 00:09 UTC 版)

畿内(きない、きだい、うちつくに)では、日本と古代中国での用法について記述する。




「畿内」の続きの解説一覧

畿内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:42 UTC 版)

令制国一覧」の記事における「畿内」の解説

大和国 やまと(和州716年頃 - 738年頃。大和国 芳野監 よしののげん 山城国 やましろ山州城州雍州河内国 かわち/かはち(河州和泉国 いずみ/いづみ(泉州) - 716年和泉監いずみのげん)として河内国より分立740年河内国併合されるも、757年に再分立摂津国 せっつ(摂州

※この「畿内」の解説は、「令制国一覧」の解説の一部です。
「畿内」を含む「令制国一覧」の記事については、「令制国一覧」の概要を参照ください。


畿内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)

近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「畿内」の解説

山城 京 (京都, 平安京) 三都の項を参照伏見 (伏) 伏見には伏見奉行所が置かれていた時期もあり、幕末には4万人上の人口を有する宿場町として栄えた天保14年1843年)の宿内のみの人口2万4227人(『東海道宿村大概帳』)。慶応4年1868年)の鳥羽・伏見の戦い市街大部分焼失する元号西暦町方人口元禄3年 1690年 25,249 元禄13年 1700年 28,743 正徳4年 1714年 30,055 明和年中 1770年27,450 天明年中 1786年33,385 天保年中 1843年40,980 明治6年 (総数) 1873年 22,334 (典拠は『京都歴史』) 宇治 元号西暦町方人口元禄3年 1690年 5,627 元禄13年 1700年 4,505 正徳5年 1715年 4,101 享保19年 1734年 4,049 延享元年 1744年 3,117 宝暦6年 1756年 2,764 文化10年 1813年 2,088 文化13年 1816年 1,632 明治6年 (総数) 1873年 2,550 (典拠は『宇治市史』) 淀 元号西暦町方人口元禄13年 1700年 3,740 正徳5年 1715年 5,143 天保14年 1843年 2,847 明治6年 (総数) 1873年 5,933 (典拠は『京都歴史』、『東海道宿村大概帳』) 大和 奈良 元号西暦合計町方寺社方寛永8年 1631年 34,985 25,054 9,931 延宝8年 1680年 28,243 元禄11年 1698年 35,369 26,420 8,949 正徳4年 1714年 23,500 享保11年 1726年 22,538 享保14年 1729年 22,146 元文5年 1740年 20,081 延享元年 1744年 19,210 安政4年 1857年 20,661 16,004 4,657 明治6年 (総数) 1873年 21,158 (典拠は『奈良市史』、『奈良県史』、梅村佳代2003年)) 郡山 (大和郡山) 延宝年中(1675年頃)の武家人口家族除いて2,757人。町屋家数延宝7年1679年)の4693軒から享保8年1723年)の3850軒、安永6年1777年)の3837軒と減少しており、延宝年中郡山武家含めた推定総人口2万5000人。 元号西暦町方人口享保8年 1723年 12,869 享保年中 1725年13,258 寛政4年 1792年 7,718 寛政10年 1798年 7,750 明治6年 (総数) 1873年 14,988 (典拠は『郡山町史』、『奈良県史』) 河内 八尾 大和川付け替え行われた宝永年中八尾戸数820余軒、人口3千余人元号西暦町方人口明和6年 1769年 2,821 文政6年 1823年 2,251 明治6年 (総数) 1873年 3,471 (典拠は『八尾市史』) 和泉 岸和田 明治6年1873年)を除き岸和田浜町のみの人口で、岸和田本町岸和田北町岸和田南町人口加算されていない元号西暦岸和田浜町宝暦5年 1755年 2,692 文久1863年 2,718 明治3年 1870年 3,057 明治6年 (総数) 1873年 8,852 (典拠は『岸和田市史』) 貝塚 元号西暦町方人口元禄9年 1696年 7,110 宝永7年 1710年 7,536 享保6年 1721年 6,807 元文4年 1739年 6,852 延享元年 1744年 6,691 延享2年 1745年 6,747 寛政10年 1798年 5,735 文化2年 1805年 5,811 文化7年 1810年 5,714 天保12年 1841年 4,617 嘉永3年 1850年 4,677 嘉永5年 1852年 4,865 元治元年 1865年 4,075 明治2年 1869年 3,958 明治6年 (総数) 1873年 4,270 (典拠は『貝塚市史』) 和泉摂津元号西暦町方人口南本南端北本北端寛文5年 1663年 69,368 28,916 7,822 19,628 13,002 延宝3年 1675年 61,481 26,226 6,937 17,415 10,903 天和元年 1681年 59,551 25,773 7,080 16,584 10,114 元禄元年 1688年 62,860 江戸初期には、泉摂国境による南北二分本郷・端郷の区分加えて4つ行政区(四辻)に分かれていた。元禄6年1693年)に本郷と端郷の区分廃し、南組・北組に再編された。 元号西暦町方人口南組北組南北寺庵同境内借屋下南北惣代職事垣外妻子下人 新地北之端並松 非人元禄8年 1695年 63,706 34,873 28,655 178 350 元禄16年 1703年 56,997 31,066 24,753 1,009 169 402 宝永元年 1704年 56,046 29,301 24,058 2,525 162 宝永4年 1707年 58,726 29,744 26,293 2,522 167 宝永6年 1709年 55,461 28,467 23,747 2,658 589 享保2年 1717年 51,138 26,244 22,427 2,326 141 366 享保4年 1719年 51,315 26,464 22,412 2,301 138 享保16年 1731年 52,446 延享3年 1746年 47,928 24,620 20,690 2,480 138 312 宝暦6年 1756年 46,662 23,576 20,478 2,451 157 308 安永6年 1777年 45,570 文化10年 1813年 44,496 308 文化13年 1816年 44,796 天保11年 1840年 44,068 弘化4年 1847年 40,616 嘉永元年 1848年 40,977 18,389 18,817 2,257 122 1,069 323 安政6年 1859年 37,153 明治6年 (総数) 1873年 38,838 (典拠は『堺市史』) 摂津 大坂 三都の項を参照平野町 ここでいう平野町とは、今日大阪市中央区船場一角南北平野町のことである。豊臣時代大坂城下町一部として、平野郷からの移住者中心となって建設されたが、徳川時代設定され大坂三郷には含まれなかった。天王寺難波と共に大坂三郷郊外型在郷町として発達した元号西暦合計在方穢多元号西暦合計在方穢多元号西暦合計在方穢多元禄元年 1688年 10,851 安永8年 1779年 8,709 8,597 112 天保5年 1834年 7,916 7,695 221 元禄3年 1690年 10,991 天明3年 1783年 8,503 8,385 118 天保7年 1836年 7,901 7,674 227 宝永元年 1704年 9,272 天明4年 1784年 8,249 8,139 110 天保9年 1838年 7,161 6,976 185 宝永3年 1706年 10,686 天明6年 1786年 7,820 7,701 119 天保10年 1839年 7,088 6,904 184 宝永5年 1708年 10,702 10,626 76 天明8年 1788年 7,694 7,578 116 天保12年 1841年 7,217 7,027 190 享保6年 1721年 10,623 10,534 89 寛政元年 1789年 7,487 7,373 114 弘化元年 1844年 7,494 7,289 205 享保11年 1726年 10,711 10,623 88 寛政6年 1794年 7,980 7,866 114 弘化2年 1846年 7,866 7,648 218 享保17年 1732年 10,484 寛政9年 1797年 8,260 8,138 122 嘉永2年 1849年 7,863 延享4年 1747年 9,150 寛政11年 1799年 8,266 8,142 124 嘉永3年 1850年 8,204 7,958 246 寛延元年 1748年 9,251 文化元年 1804年 7,982 7,848 134 嘉永5年 1852年 8,230 7,984 246 宝暦6年 1756年 9,439 9,339 100 文化6年 1809年 7,900 7,741 159 嘉永6年 1853年 8,146 7,894 252 宝暦9年 1759年 9,401 9,298 103 文化11年 1814年 7,833 7,657 176 安政2年 1855年 8,006 宝暦11年 1761年 9,432 9,334 98 文政2年 1819年 7,802 7,621 181 文久2年 1862年 8,352 8,103 249 明和元年 1764年 9,390 9,285 105 文政7年 1824年 7,746 7,545 201 文久3年 1863年 8,201 7,948 253 明和4年 1767年 9,464 9,357 107 文政9年 1826年 7,689 7,476 213 元治元年 1864年 7,899 明和5年 1768年 9,208 天保3年 1832年 7,839 7,621 218 明治6年 (総数) 1873年 6,796 安永3年 1774年 8,936 8,838 98 天保4年 1833年 7,927 7,706 221 (典拠は『新修大阪市史』) 尼崎 元号西暦町方人口寛文9年 1669年 14,890 貞享年中 1685年15,113 享保元年 1716年 16,439 享保19年 1734年 16,494 天明8年 1788年 12,008 天保9年 1838年 9,671 明治6年 (総数) 1873年 12,404 (典拠は『尼崎市史』) 伊丹 享和元年1801年)の伊丹郷の人口は8237人。天保7年1836年)の伊丹郷の竈数は2500推定人口1万人(典拠は『伊丹市史』)。明治6年1873年)の人口は3508人。 西宮 天保14年1843年)の宿人別町奉行支配場の合計は8268人(『山崎通宿村大概帳』)。 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口明和6年 1769年 9,778 寛政11年 1799年 8,504 文政12年 1829年 8,225 明和7年 1770年 9,520 寛政12年 1800年 8,567 天保元年 1830年 8,399 明和8年 1771年 9,489 享和元年 1801年 8,588 天保2年 1831年 8,281 安永元年 1772年 9,266 享和2年 1802年 8,591 天保3年 1832年 8,348 安永2年 1773年 9,141 享和3年 1803年 8,488 天保4年 1833年 8,297 安永3年 1774年 9,297 文化元年 1804年 8,557 天保5年 1834年 8,173 安永4年 1775年 9,255 文化2年 1805年 8,668 天保6年 1835年 8,146 安永5年 1776年 9,317 文化3年 1806年 8,675 天保7年 1836年 8,196 安永6年 1777年 9,326 文化4年 1807年 8,643 天保8年 1837年 7,789 安永7年 1778年 9,364 文化5年 1808年 8,634 天保9年 1838年 7,518 安永8年 1779年 9,404 文化6年 1809年 8,619 天保10年 1839年 7,360 安永9年 1780年 9,380 文化7年 1810年 8,499 天保11年 1840年 7,557 天明元年 1781年 9,363 文化8年 1811年 8,441 天保12年 1841年 7,641 天明2年 1782年 9,217 文化9年 1812年 8,459 天保13年 1842年 7,847 天明3年 1783年 8,955 文化10年 1813年 8,434 天保14年 1843年 8,075 天明4年 1784年 8,419 文化11年 1814年 8,470 弘化元年 1844年 8,129 天明5年 1785年 8,235 文化12年 1815年 8,414 弘化2年 1845年 8,195 天明6年 1786年 8,226 文化13年 1816年 8,430 弘化3年 1846年 8,024 天明7年 1787年 8,142 文化14年 1817年 8,465 弘化4年 1847年 8,006 天明8年 1788年 8,041 文政元年 1818年 8,365 嘉永元年 1848年 8,002 寛政元年 1789年 7,954 文政2年 1819年 8,337 嘉永2年 1849年 7,773 寛政2年 1790年 8,087 文政3年 1820年 8,363 嘉永3年 1850年 7,669 寛政3年 1791年 8,154 文政4年 1821年 8,356 嘉永4年 1851年 7,843 寛政4年 1792年 8,187 文政5年 1822年 8,323 嘉永5年 1852年 7,869 寛政5年 1793年 8,249 文政6年 1823年 8,329 嘉永6年 1853年 7,820 寛政6年 1794年 8,359 文政7年 1824年 8,364 安政元年 1854年 7,616 寛政7年 1795年 8,414 文政8年 1825年 8,279 安政2年 1855年 7,682 寛政8年 1796年 8,496 文政9年 1826年 8,261 安政3年 1856年 7,656 寛政9年 1797年 8,537 文政10年 1827年 8,342 明治6年 (総数) 1858年 8,699 寛政10年 1798年 8,619 文政11年 1828年 8,336 (典拠西山松之助1952年)) 兵庫神戸 慶応3年旧暦12月7日(1868年1月1日)に兵庫津の東に位置する神戸村幕末五港一つとなる兵庫港として開港する。後に神戸港改名し明治入って兵庫港・神戸港から成る神戸区成立する1829年以前神戸村人口は、元禄3年1690年)に1391人、宝暦10年1760年)に1985人。『日本地誌提要』による明治6年1873年)の総人口兵庫67神戸30町で40900人(現住人口か?)、外国人寄留人口350人。 元号西暦兵庫町元号西暦兵庫町元号西暦兵庫町神戸村享保年中 1725年19,766 寛政10年 1798年 20,678 天保元年 1830年 20,920 2,637 元文4年 1739年 20,546 寛政11年 1799年 20,880 天保2年 1831年 20,710 宝暦9年 1759年 21,030 寛政12年 1800年 20,853 天保3年 1832年 20,942 2,640 明和6年 1769年 22,774 享和元年 1801年 20,740 天保4年 1833年 20,896 2,666 明和7年 1770年 22,146 享和2年 1802年 20,835 天保5年 1834年 20,626 2,670 明和8年 1771年 22,007 享和3年 1803年 20,741 天保6年 1835年 20,729 安永元年 1772年 21,702 文化元年 1804年 20,590 天保7年 1836年 20,676 安永2年 1773年 22,072 文化2年 1805年 20,642 天保8年 1837年 20,003 2,624 安永3年 1774年 22,133 文化3年 1806年 20,751 天保9年 1838年 19,591 安永4年 1775年 22,031 文化4年 1807年 20,675 天保10年 1839年 19,535 2,541 安永5年 1776年 21,829 文化5年 1808年 20,645 天保11年 1840年 19,847 2,442 安永6年 1777年 21,693 文化6年 1809年 20,517 天保12年 1841年 20,326 安永7年 1778年 21,468 文化7年 1810年 20,431 天保13年 1842年 20,614 安永8年 1779年 21,549 文化8年 1811年 20,375 天保14年 1843年 21,060 安永9年 1780年 21,448 文化9年 1812年 20,355 弘化元年 1844年 22,374 天明元年 1781年 21,552 文化10年 1813年 20,185 弘化2年 1845年 22,311 2,558 天明2年 1782年 21,531 文化11年 1814年 20,251 弘化3年 1846年 22,074 天明3年 1783年 21,412 文化12年 1815年 20,158 弘化4年 1847年 21,966 天明4年 1784年 20,279 文化13年 1816年 20,146 嘉永元年 1848年 21,965 天明5年 1785年 19,906 文化14年 1817年 20,182 嘉永2年 1849年 22,011 天明6年 1786年 19,987 文政元年 1818年 20,215 嘉永3年 1850年 21,861 2,547 天明7年 1787年 19,934 文政2年 1819年 20,401 嘉永4年 1851年 21,362 天明8年 1788年 19,858 文政3年 1820年 20,511 嘉永5年 1852年 21,097 2,522 寛政元年 1789年 19,909 文政4年 1821年 20,590 嘉永6年 1853年 20,960 2,533 寛政2年 1790年 20,162 文政5年 1822年 20,643 安政元年 1854年 20,887 寛政3年 1791年 20,057 文政6年 1823年 20,973 安政2年 1855年 20,998 寛政4年 1792年 20,321 文政7年 1824年 20,961 安政3年 1856年 21,120 寛政5年 1793年 20,467 文政8年 1825年 20,916 安政5年 1858年 2,605 寛政6年 1794年 20,559 文政9年 1826年 20,859 文久元年 1861年 20,061 寛政7年 1795年 20,529 文政10年 1827年 20,935 明治元年 (総数) 1868年 19,556 寛政8年 1796年 20,736 文政11年 1828年 20,998 明治6年 (総数) 1873年 27,476 8,554 寛政9年 1797年 20,681 文政12年 1829年 21,105 (典拠西山松之助1952年)、『神戸市史』)

※この「畿内」の解説は、「近代以前の日本の都市人口統計」の解説の一部です。
「畿内」を含む「近代以前の日本の都市人口統計」の記事については、「近代以前の日本の都市人口統計」の概要を参照ください。


畿内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 04:51 UTC 版)

新田」の記事における「畿内」の解説

畿内では淀川水系治水同時に大和川付け替え跡地大阪湾岸の河口浅瀬次々と商人による新田開発が行われた。大阪平野多く土地はこの時期水辺から陸地になった場所が多くこうした新田の名には開発した商人の名がつけられ、現在でも土地地名商人の名に由来するもの多く残っている。(例:鴻池家開発した鴻池新田など)これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる管理事務所があり、小作人からの年貢米徴収貯蔵や、新田堤防水路などの維持管理業務役人への応対などを行っていた。

※この「畿内」の解説は、「新田」の解説の一部です。
「畿内」を含む「新田」の記事については、「新田」の概要を参照ください。


畿内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 23:36 UTC 版)

郡寺」の記事における「畿内」の解説

大和国 (飛鳥白鳳寺院数:約75カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考平群郡 平群寺(平隆寺県史跡) 『興福寺官務牒疏』 吉野郡 吉野寺(比蘇寺『日本書紀』欽明14年5月是月条 高市郡 和田廃寺 墨書土器大寺忍海郡 唯一:地光寺跡(忍海漢人) 山背国 (飛鳥白鳳寺院数:約37カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考久世郡 正道官衙遺跡 久世廃寺正道廃寺 乙訓郡 乙訓寺跡 『日本紀略延暦4年9月庚申葛野郡 葛野秦寺(広隆寺『日本書紀』推古31年7月愛宕郡 愛宕寺珍皇寺) 『伊呂波字類抄』6 オ 諸寺 紀伊郡 紀伊寺 『日本文徳天皇実録嘉祥3年3月乙巳綴喜郡 普賢寺(観音寺 (京田辺市)) 『興福寺官務牒疏』 宇治郡 山階寺大宅廃寺? 興福寺前身相楽郡 高麗寺跡国史跡府内最古?) 河内国 (飛鳥白鳳寺院数:約47カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考安宿郡 円明遺跡 安宿寺(円明廃寺) 墨書土器安宿寺」「安寺錦部郡 錦部遺跡細井廃寺?) 『歓心勘録縁起資材帳古市郡 古市寺(西琳寺) 『西琳寺文永注記讃良郡 更荒寺(讃良寺跡) 『とはずがたり』巻2 茨田郡 茨田寺(中山観音寺跡高瀬寺跡) 『聖徳太子伝私記若江郡 若江寺跡尊意僧正伝』 河内郡 皿池遺跡群 河内寺廃寺国史跡廃寺跡は史跡公園 石川郡 新堂廃寺国史跡交野郡 倉山 周辺長宝寺 渋川郡 渋川廃寺(阿刀氏?) 志紀郡 舟橋遺跡? 丹比郡 平尾遺跡? 丹比廃寺? 後に丹南郡丹北郡八上郡 和泉国716年和泉監757年立国)は、27古代寺院推定地があり、最古は秦廃寺貝塚市大鳥郡)である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考和泉郡 周辺府中遺跡 和泉寺日根郡 海会寺跡 摂津国 (飛鳥白鳳寺院数:約20カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考嶋上郡 郡家川西 芥川廃寺嶋上郡衙跡附寺跡国史跡今城塚古代歴史館展示 豊島郡寺山廃寺唯一、瓦は豊中市文化財菟原郡 芦屋廃寺唯一芦屋市立美術博物館展示)) 雄伴郡(後に八部郡) 房王寺廃寺唯一有馬郡 金心寺跡(唯一百済郡 百済寺堂ヶ芝廃寺?) 川辺郡 伊丹廃寺跡など

※この「畿内」の解説は、「郡寺」の解説の一部です。
「畿内」を含む「郡寺」の記事については、「郡寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「畿内」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「畿内」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「畿内」の関連用語

畿内のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



畿内のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
防府市教育委員会防府市教育委員会
Copyright 2024,Hofu Virtual Site Museum,Japan
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの畿内 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの令制国一覧 (改訂履歴)、近代以前の日本の都市人口統計 (改訂履歴)、新田 (改訂履歴)、郡寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS