畿内
畿内
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大和国 やまと(和州)716年頃 - 738年頃。大和国 芳野監 よしののげん 山城国 やましろ(山州、城州、雍州) 河内国 かわち/かはち(河州) 和泉国 いずみ/いづみ(泉州) - 716年に和泉監(いずみのげん)として河内国より分立。740年に河内国に併合されるも、757年に再分立。 摂津国 せっつ(摂州)
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畿内
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「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「畿内」の解説
山城 京 (京都, 平安京) 三都の項を参照。 伏見 (伏水) 伏見には伏見奉行所が置かれていた時期もあり、幕末には4万人以上の人口を有する宿場町として栄えた。天保14年(1843年)の宿内のみの人口は2万4227人(『東海道宿村大概帳』)。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで市街の大部分が焼失する。 元号西暦町方人口元禄3年 1690年 25,249 元禄13年 1700年 28,743 正徳4年 1714年 30,055 明和年中 1770年頃 27,450 天明年中 1786年頃 33,385 天保年中 1843年頃 40,980 明治6年 (総数) 1873年 22,334 (典拠は『京都の歴史』) 宇治 元号西暦町方人口元禄3年 1690年 5,627 元禄13年 1700年 4,505 正徳5年 1715年 4,101 享保19年 1734年 4,049 延享元年 1744年 3,117 宝暦6年 1756年 2,764 文化10年 1813年 2,088 文化13年 1816年 1,632 明治6年 (総数) 1873年 2,550 (典拠は『宇治市史』) 淀 元号西暦町方人口元禄13年 1700年 3,740 正徳5年 1715年 5,143 天保14年 1843年 2,847 明治6年 (総数) 1873年 5,933 (典拠は『京都の歴史』、『東海道宿村大概帳』) 大和 奈良 元号西暦合計町方寺社方寛永8年 1631年 34,985 25,054 9,931 延宝8年 1680年 28,243 元禄11年 1698年 35,369 26,420 8,949 正徳4年 1714年 23,500 享保11年 1726年 22,538 享保14年 1729年 22,146 元文5年 1740年 20,081 延享元年 1744年 19,210 安政4年 1857年 20,661 16,004 4,657 明治6年 (総数) 1873年 21,158 (典拠は『奈良市史』、『奈良県史』、梅村佳代(2003年)) 郡山 (大和郡山) 延宝年中(1675年頃)の武家人口は家族を除いて2,757人。町屋家数は延宝7年(1679年)の4693軒から享保8年(1723年)の3850軒、安永6年(1777年)の3837軒と減少しており、延宝年中の郡山の武家を含めた推定総人口は2万5000人。 元号西暦町方人口享保8年 1723年 12,869 享保年中 1725年頃 13,258 寛政4年 1792年 7,718 寛政10年 1798年 7,750 明治6年 (総数) 1873年 14,988 (典拠は『郡山町史』、『奈良県史』) 河内 八尾 大和川の付け替えの行われた宝永年中の八尾は戸数820余軒、人口3千余人。 元号西暦町方人口明和6年 1769年 2,821 文政6年 1823年 2,251 明治6年 (総数) 1873年 3,471 (典拠は『八尾市史』) 和泉 岸和田 明治6年(1873年)を除き岸和田浜町のみの人口で、岸和田本町、岸和田北町、岸和田南町の人口は加算されていない。 元号西暦岸和田浜町宝暦5年 1755年 2,692 文久年 1863年 2,718 明治3年 1870年 3,057 明治6年 (総数) 1873年 8,852 (典拠は『岸和田市史』) 貝塚 元号西暦町方人口元禄9年 1696年 7,110 宝永7年 1710年 7,536 享保6年 1721年 6,807 元文4年 1739年 6,852 延享元年 1744年 6,691 延享2年 1745年 6,747 寛政10年 1798年 5,735 文化2年 1805年 5,811 文化7年 1810年 5,714 天保12年 1841年 4,617 嘉永3年 1850年 4,677 嘉永5年 1852年 4,865 元治元年 1865年 4,075 明治2年 1869年 3,958 明治6年 (総数) 1873年 4,270 (典拠は『貝塚市史』) 和泉・摂津 堺 元号西暦町方人口南本郷南端郷北本郷北端郷寛文5年 1663年 69,368 28,916 7,822 19,628 13,002 延宝3年 1675年 61,481 26,226 6,937 17,415 10,903 天和元年 1681年 59,551 25,773 7,080 16,584 10,114 元禄元年 1688年 62,860 江戸初期には、泉摂国境による南北二分に本郷・端郷の区分を加えて、4つの行政区(四辻)に分かれていた。元禄6年(1693年)に本郷と端郷の区分を廃し、南組・北組に再編された。 元号西暦町方人口南組北組南北寺庵同境内借屋下人 南北惣代職事並垣外妻子下人 新地北之端並松 非人元禄8年 1695年 63,706 34,873 28,655 178 350 元禄16年 1703年 56,997 31,066 24,753 1,009 169 402 宝永元年 1704年 56,046 29,301 24,058 2,525 162 宝永4年 1707年 58,726 29,744 26,293 2,522 167 宝永6年 1709年 55,461 28,467 23,747 2,658 589 享保2年 1717年 51,138 26,244 22,427 2,326 141 366 享保4年 1719年 51,315 26,464 22,412 2,301 138 享保16年 1731年 52,446 延享3年 1746年 47,928 24,620 20,690 2,480 138 312 宝暦6年 1756年 46,662 23,576 20,478 2,451 157 308 安永6年 1777年 45,570 文化10年 1813年 44,496 308 文化13年 1816年 44,796 天保11年 1840年 44,068 弘化4年 1847年 40,616 嘉永元年 1848年 40,977 18,389 18,817 2,257 122 1,069 323 安政6年 1859年 37,153 明治6年 (総数) 1873年 38,838 (典拠は『堺市史』) 摂津 大坂 三都の項を参照。 平野町 ここでいう平野町とは、今日の大阪市中央区の船場の一角の南北平野町のことである。豊臣時代に大坂城下町の一部として、平野郷からの移住者が中心となって建設されたが、徳川時代に設定された大坂三郷には含まれなかった。天王寺、難波と共に、大坂三郷の郊外型の在郷町として発達した。 元号西暦合計在方穢多元号西暦合計在方穢多元号西暦合計在方穢多元禄元年 1688年 10,851 安永8年 1779年 8,709 8,597 112 天保5年 1834年 7,916 7,695 221 元禄3年 1690年 10,991 天明3年 1783年 8,503 8,385 118 天保7年 1836年 7,901 7,674 227 宝永元年 1704年 9,272 天明4年 1784年 8,249 8,139 110 天保9年 1838年 7,161 6,976 185 宝永3年 1706年 10,686 天明6年 1786年 7,820 7,701 119 天保10年 1839年 7,088 6,904 184 宝永5年 1708年 10,702 10,626 76 天明8年 1788年 7,694 7,578 116 天保12年 1841年 7,217 7,027 190 享保6年 1721年 10,623 10,534 89 寛政元年 1789年 7,487 7,373 114 弘化元年 1844年 7,494 7,289 205 享保11年 1726年 10,711 10,623 88 寛政6年 1794年 7,980 7,866 114 弘化2年 1846年 7,866 7,648 218 享保17年 1732年 10,484 寛政9年 1797年 8,260 8,138 122 嘉永2年 1849年 7,863 延享4年 1747年 9,150 寛政11年 1799年 8,266 8,142 124 嘉永3年 1850年 8,204 7,958 246 寛延元年 1748年 9,251 文化元年 1804年 7,982 7,848 134 嘉永5年 1852年 8,230 7,984 246 宝暦6年 1756年 9,439 9,339 100 文化6年 1809年 7,900 7,741 159 嘉永6年 1853年 8,146 7,894 252 宝暦9年 1759年 9,401 9,298 103 文化11年 1814年 7,833 7,657 176 安政2年 1855年 8,006 宝暦11年 1761年 9,432 9,334 98 文政2年 1819年 7,802 7,621 181 文久2年 1862年 8,352 8,103 249 明和元年 1764年 9,390 9,285 105 文政7年 1824年 7,746 7,545 201 文久3年 1863年 8,201 7,948 253 明和4年 1767年 9,464 9,357 107 文政9年 1826年 7,689 7,476 213 元治元年 1864年 7,899 明和5年 1768年 9,208 天保3年 1832年 7,839 7,621 218 明治6年 (総数) 1873年 6,796 安永3年 1774年 8,936 8,838 98 天保4年 1833年 7,927 7,706 221 (典拠は『新修大阪市史』) 尼崎 元号西暦町方人口寛文9年 1669年 14,890 貞享年中 1685年頃 15,113 享保元年 1716年 16,439 享保19年 1734年 16,494 天明8年 1788年 12,008 天保9年 1838年 9,671 明治6年 (総数) 1873年 12,404 (典拠は『尼崎市史』) 伊丹 享和元年(1801年)の伊丹郷の人口は8237人。天保7年(1836年)の伊丹郷の竈数は2500で推定人口1万人(典拠は『伊丹市史』)。明治6年(1873年)の人口は3508人。 西宮 天保14年(1843年)の宿人別と町奉行支配場の合計は8268人(『山崎通宿村大概帳』)。 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口明和6年 1769年 9,778 寛政11年 1799年 8,504 文政12年 1829年 8,225 明和7年 1770年 9,520 寛政12年 1800年 8,567 天保元年 1830年 8,399 明和8年 1771年 9,489 享和元年 1801年 8,588 天保2年 1831年 8,281 安永元年 1772年 9,266 享和2年 1802年 8,591 天保3年 1832年 8,348 安永2年 1773年 9,141 享和3年 1803年 8,488 天保4年 1833年 8,297 安永3年 1774年 9,297 文化元年 1804年 8,557 天保5年 1834年 8,173 安永4年 1775年 9,255 文化2年 1805年 8,668 天保6年 1835年 8,146 安永5年 1776年 9,317 文化3年 1806年 8,675 天保7年 1836年 8,196 安永6年 1777年 9,326 文化4年 1807年 8,643 天保8年 1837年 7,789 安永7年 1778年 9,364 文化5年 1808年 8,634 天保9年 1838年 7,518 安永8年 1779年 9,404 文化6年 1809年 8,619 天保10年 1839年 7,360 安永9年 1780年 9,380 文化7年 1810年 8,499 天保11年 1840年 7,557 天明元年 1781年 9,363 文化8年 1811年 8,441 天保12年 1841年 7,641 天明2年 1782年 9,217 文化9年 1812年 8,459 天保13年 1842年 7,847 天明3年 1783年 8,955 文化10年 1813年 8,434 天保14年 1843年 8,075 天明4年 1784年 8,419 文化11年 1814年 8,470 弘化元年 1844年 8,129 天明5年 1785年 8,235 文化12年 1815年 8,414 弘化2年 1845年 8,195 天明6年 1786年 8,226 文化13年 1816年 8,430 弘化3年 1846年 8,024 天明7年 1787年 8,142 文化14年 1817年 8,465 弘化4年 1847年 8,006 天明8年 1788年 8,041 文政元年 1818年 8,365 嘉永元年 1848年 8,002 寛政元年 1789年 7,954 文政2年 1819年 8,337 嘉永2年 1849年 7,773 寛政2年 1790年 8,087 文政3年 1820年 8,363 嘉永3年 1850年 7,669 寛政3年 1791年 8,154 文政4年 1821年 8,356 嘉永4年 1851年 7,843 寛政4年 1792年 8,187 文政5年 1822年 8,323 嘉永5年 1852年 7,869 寛政5年 1793年 8,249 文政6年 1823年 8,329 嘉永6年 1853年 7,820 寛政6年 1794年 8,359 文政7年 1824年 8,364 安政元年 1854年 7,616 寛政7年 1795年 8,414 文政8年 1825年 8,279 安政2年 1855年 7,682 寛政8年 1796年 8,496 文政9年 1826年 8,261 安政3年 1856年 7,656 寛政9年 1797年 8,537 文政10年 1827年 8,342 明治6年 (総数) 1858年 8,699 寛政10年 1798年 8,619 文政11年 1828年 8,336 (典拠は西山松之助(1952年)) 兵庫・神戸 慶応3年旧暦12月7日(1868年1月1日)に兵庫津の東に位置する神戸村が幕末五港の一つとなる兵庫港として開港する。後に神戸港と改名し、明治に入って兵庫港・神戸港から成る神戸区が成立する。1829年以前の神戸村の人口は、元禄3年(1690年)に1391人、宝暦10年(1760年)に1985人。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の総人口は兵庫67町神戸30町で4万0900人(現住人口か?)、外国人寄留人口は350人。 元号西暦兵庫町方元号西暦兵庫町方元号西暦兵庫町方神戸村享保年中 1725年頃 19,766 寛政10年 1798年 20,678 天保元年 1830年 20,920 2,637 元文4年 1739年 20,546 寛政11年 1799年 20,880 天保2年 1831年 20,710 宝暦9年 1759年 21,030 寛政12年 1800年 20,853 天保3年 1832年 20,942 2,640 明和6年 1769年 22,774 享和元年 1801年 20,740 天保4年 1833年 20,896 2,666 明和7年 1770年 22,146 享和2年 1802年 20,835 天保5年 1834年 20,626 2,670 明和8年 1771年 22,007 享和3年 1803年 20,741 天保6年 1835年 20,729 安永元年 1772年 21,702 文化元年 1804年 20,590 天保7年 1836年 20,676 安永2年 1773年 22,072 文化2年 1805年 20,642 天保8年 1837年 20,003 2,624 安永3年 1774年 22,133 文化3年 1806年 20,751 天保9年 1838年 19,591 安永4年 1775年 22,031 文化4年 1807年 20,675 天保10年 1839年 19,535 2,541 安永5年 1776年 21,829 文化5年 1808年 20,645 天保11年 1840年 19,847 2,442 安永6年 1777年 21,693 文化6年 1809年 20,517 天保12年 1841年 20,326 安永7年 1778年 21,468 文化7年 1810年 20,431 天保13年 1842年 20,614 安永8年 1779年 21,549 文化8年 1811年 20,375 天保14年 1843年 21,060 安永9年 1780年 21,448 文化9年 1812年 20,355 弘化元年 1844年 22,374 天明元年 1781年 21,552 文化10年 1813年 20,185 弘化2年 1845年 22,311 2,558 天明2年 1782年 21,531 文化11年 1814年 20,251 弘化3年 1846年 22,074 天明3年 1783年 21,412 文化12年 1815年 20,158 弘化4年 1847年 21,966 天明4年 1784年 20,279 文化13年 1816年 20,146 嘉永元年 1848年 21,965 天明5年 1785年 19,906 文化14年 1817年 20,182 嘉永2年 1849年 22,011 天明6年 1786年 19,987 文政元年 1818年 20,215 嘉永3年 1850年 21,861 2,547 天明7年 1787年 19,934 文政2年 1819年 20,401 嘉永4年 1851年 21,362 天明8年 1788年 19,858 文政3年 1820年 20,511 嘉永5年 1852年 21,097 2,522 寛政元年 1789年 19,909 文政4年 1821年 20,590 嘉永6年 1853年 20,960 2,533 寛政2年 1790年 20,162 文政5年 1822年 20,643 安政元年 1854年 20,887 寛政3年 1791年 20,057 文政6年 1823年 20,973 安政2年 1855年 20,998 寛政4年 1792年 20,321 文政7年 1824年 20,961 安政3年 1856年 21,120 寛政5年 1793年 20,467 文政8年 1825年 20,916 安政5年 1858年 2,605 寛政6年 1794年 20,559 文政9年 1826年 20,859 文久元年 1861年 20,061 寛政7年 1795年 20,529 文政10年 1827年 20,935 明治元年 (総数) 1868年 19,556 寛政8年 1796年 20,736 文政11年 1828年 20,998 明治6年 (総数) 1873年 27,476 8,554 寛政9年 1797年 20,681 文政12年 1829年 21,105 (典拠は西山松之助(1952年)、『神戸市史』)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 04:51 UTC 版)
畿内では淀川水系の治水と同時に、大和川付け替えの跡地や大阪湾岸の河口の浅瀬で次々と商人による新田開発が行われた。大阪平野の多くの土地はこの時期に水辺から陸地になった場所が多く、こうした新田の名には開発した商人の名がつけられ、現在でも土地の地名に商人の名に由来するものが多く残っている。(例:鴻池家が開発した鴻池新田など)これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる管理事務所があり、小作人からの年貢米徴収・貯蔵や、新田の堤防・水路などの維持管理業務、役人への応対などを行っていた。
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畿内
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大和国 (飛鳥・白鳳寺院数:約75カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考平群郡 平群寺(平隆寺:県史跡) 『興福寺官務牒疏』 吉野郡 吉野寺(比蘇寺) 『日本書紀』欽明14年5月是月条 高市郡 和田廃寺 墨書土器「大寺」 忍海郡 唯一:地光寺跡(忍海漢人) 山背国 (飛鳥・白鳳寺院数:約37カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考久世郡 正道官衙遺跡 久世廃寺・正道廃寺 乙訓郡 乙訓寺跡 『日本紀略』延暦4年9月庚申条 葛野郡 葛野秦寺(広隆寺) 『日本書紀』推古31年秋7月条 愛宕郡 愛宕寺(珍皇寺) 『伊呂波字類抄』6 オ 諸寺 紀伊郡 紀伊寺 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年3月乙巳条 綴喜郡 普賢寺(観音寺 (京田辺市)) 『興福寺官務牒疏』 宇治郡 山階寺(大宅廃寺? 興福寺の前身) 相楽郡 高麗寺跡(国史跡、府内最古?) 河内国 (飛鳥・白鳳寺院数:約47カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考安宿郡 円明遺跡 安宿寺(円明廃寺) 墨書土器「安宿寺」「安寺」 錦部郡 錦部遺跡(細井廃寺?) 『歓心寺勘録縁起資材帳』 古市郡 古市寺(西琳寺) 『西琳寺文永注記』 讃良郡 更荒寺(讃良寺跡) 『とはずがたり』巻2 茨田郡 茨田寺(中山観音寺跡か高瀬寺跡) 『聖徳太子伝私記』 若江郡 若江寺跡 『尊意贈僧正伝』 河内郡 皿池遺跡群 河内寺廃寺(国史跡) 廃寺跡は史跡公園 石川郡 新堂廃寺(国史跡) 交野郡 倉山 周辺に長宝寺 渋川郡 渋川廃寺(阿刀氏?) 志紀郡 舟橋遺跡? 丹比郡 平尾遺跡? 丹比廃寺? 後に丹南郡・丹北郡・八上郡 和泉国(716年に和泉監、757年に立国)は、27の古代寺院推定地があり、最古は秦廃寺(貝塚市、大鳥郡)である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考和泉郡 周辺に府中遺跡 和泉寺? 日根郡 海会寺跡 摂津国 (飛鳥・白鳳寺院数:約20カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考嶋上郡 郡家川西 芥川廃寺(嶋上郡衙跡附寺跡:国史跡) 今城塚古代歴史館・展示 豊島郡 金寺山廃寺(唯一、瓦は豊中市文化財) 菟原郡 芦屋廃寺(唯一、芦屋市立美術博物館・展示)) 雄伴郡(後に八部郡) 房王寺廃寺(唯一) 有馬郡 金心寺跡(唯一) 百済郡 百済寺(堂ヶ芝廃寺?) 川辺郡 伊丹廃寺跡など
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