百済大寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)
田村皇子は太子の意向を承けて、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた。『日本書紀』の同年七月条には「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」「則ち百済川の側(ほとり)を以て宮処とす」とある。これが百済大宮と百済大寺である。百済大寺は日本最初の官寺であり、国の大寺として尊崇を集めた。『日本書紀』によれば大化元年(645年)8月には孝徳天皇が大寺に使いを派遣して十師を定め、このとき恵妙(慧妙とも)が百済大寺の寺主となっている。 百済大寺の位置は長年不明であった。奈良県北葛城郡広陵町の百済寺を百済大寺跡とする説は江戸時代からあったが、飛鳥から遠く離れた同地と舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡の発見や古瓦の出土もない。奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)による調査の結果、1997年(平成9年)に奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。この寺跡は藤原宮跡の東方、かつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。その後、2002年(平成14年)まで継続された発掘調査では、吉備池廃寺の伽藍の様子が明らかになった。吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。
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