盧溝橋事件
「盧溝橋事件」とは、1937年7月に起きた日本軍と中国軍の争いのことを意味する表現である。
「盧溝橋事件」の基本的な意味
「盧溝橋事件」は1937年7月に北京の盧溝橋付近で起こった、日本軍と中国軍の争いのことを指す。この事件は日中戦争のきっかけにもなったとも言われ、日本軍と中国軍の小競り合いから大きな事件に発展していったのが特徴的だ。当時の日本と中国の関係性は最悪の状態で、中国国内では反日感情が渦巻いていた。日本は1931年に満州事変を起こし、翌年には満州国を設立。さらに華北地方を中国国内から分断させようと、華北分離工作をし始める。この動きを封じ込めようと中国側はわざと日本に従順な振りをし、北京付近を手放して独立させた。独立することで日本に従う姿勢を見せつつ、日本側がこれ以上侵略しないように牽制したのだ。しかし中国国内では反日感情が高まり、日本に従う姿勢を見せるのには限界があったのだ。限界を超えた中国軍と日本軍は頻繁に争い事を起こすようになる。現地の治安は悪化し、日中の関係性も悪くなっていった。
そんな状態が続く中、事件が起こる。1937年7月7日、日本軍は盧溝橋付近で夜間演習を行っていた。夜の10時に演習を終え、当時の清水節郎大尉が集合を伝達した直後、日本軍に向かって実弾が撃たれたのだ。発砲された方向は中国軍が居る場所で、危険を感じた清水大尉が集合の合図であるラッパを部下に吹かせると、次はラッパに向かって実弾が数十発放り込まれたのである。このような攻撃はその後も起こり、日本軍は自衛のため応戦したのである。
日本軍に向けて撃たれた実弾は誰が撃ったのかは現代でも分かっていない。日本側の自作自演という説もあるが、これも真実が分からない。また中国側は日本が意図的に攻撃を仕掛けて来たと主張し、日本側も中国が攻撃をして来たと証言している。当時の北京大使館付きの武官輔佐官であった今井武夫少佐氏は日本からの攻撃ではないとし、抗日意識に燃えた中国軍が発作的に実弾を撃ち込んだのではないかと分析している。
この事件のきっかけになったのではないかと推測されている説が一つある。それは一人の伝令役の兵士が行方不明になったことだ。日本軍は行方不明になった兵士が中国軍に撃たれたのではないかと考える。味方の兵士が撃たれてしまったのではないか、捕虜になったのではなどの様々な情報もあり、日本側も応戦したのではないかと言われているのである。ただその兵士はトイレに行くために持ち場を離れただけで、撃たれたのでもなく、捕虜になったのでもなかった。トイレから帰るときにはすでに日中間での争いは始まっていて、危険を感じたため身を潜めていただけだったのだ。兵士は20分後には部隊に戻り、上司もきちんと報告を受けている。
この事件前の日中の争いは限定的なもので、全面戦争に発展するほどではなかった。しかし盧溝橋事件以降はそれぞれの国が全面戦争へ舵を切り、日中戦争まで進んで行ったのである。
「盧溝橋事件」の発音・読み方
「ろこうきょうじけん」と読む。「盧溝橋事件」の語源・由来
北京郊外にあった盧溝橋で発砲事件があったことから、この名前が付けられている。中国国内では事件が起きた日付けから取って、「七・七事件」とも呼ばれる。「盧溝橋事件」と「満州事変」の違い
「満州事変」は1931年に起こったもので、日本が中国に進出していった一連の流れを指す。一方「盧溝橋事件」は1937年に起こった日本と中国の軍事衝突事件のことで、満州事変以降に起きた事件である。「満州事変」は満州国設立のきっかけに、「盧溝橋事件」は日中戦争のきっかけになった歴史上の出来事である。「盧溝橋事件」の使い方・例文
・日中戦争のきっかけとなったのが、盧溝橋事件だ。・盧溝橋事件は、日本兵士がトイレに行ったことがきっかけで起きた事件という説もある。
・盧溝橋事件は夜間に起きた。
ろこうきょう‐じけん〔ロコウケウ‐〕【盧溝橋事件】
盧溝橋事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/26 01:03 UTC 版)
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国語: 七七事件; 簡体字: 卢沟桥事变; 繁体字: 盧溝橋事變)は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国北平市(現:北京市)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。1937年7月7日夜、豊台に駐屯して付近の河原で夜間演習中、実弾を撃ち込まれ、点呼時に兵士の1人が所在不明だったため、中国側の攻撃があったと判断して起きたと言われる。比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となった[1]が、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの(後述)、結果として日中戦争(支那事変)の発端となった[5]とされる。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[6]。まれに、後述する英語名を直訳してマルコ・ポーロ橋事件と表記される場合もある。英語ではMarco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる[7][注釈 2]。
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- 1 盧溝橋事件とは
- 2 盧溝橋事件の概要
盧溝橋事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/01 10:05 UTC 版)
「藤田勇 (新聞記者)」の記事における「盧溝橋事件」の解説
1937年7月に盧溝橋事件が起き、日中が全面戦争に入った頃、麻薬の密輸で軍の資金不足を補おうと考えた同郷の杉山元陸軍大臣から、麻薬20万ポンドの上海への密輸を依頼された。藤田は軍人を信用しておらず、注文内容と報酬200万円を渡す旨を記した契約書を作成させて杉山の署名・捺印を取り付けた。20万ポンドの麻薬が三井物産を通じて上海に陸揚げされ、軍の倉庫に納められた後で、藤田が予期していたように、軍内部で藤田への報酬の支払に反対する意見が出たため、弁護士・海野晋吉を代理人として日本陸軍を取り込み詐欺で訴え、仮処分で上海の麻薬倉庫を封鎖、杉山の注文書を証拠として法廷に提出し軍を追及し始めたため、杉山が藤田に謝罪し、20万円に減じられた謝礼を受け取って決着した。 藤田は密輸した麻薬の一部を上海の青幇に流し、また青幇からの依頼で上海で排日映画を作成して日本の憲兵隊に拘束された王主景の釈放に助力して、青幇の首領・黄金栄との信頼関係を築いた。
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