真徳女王
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真徳女王(しんとくじょおう、? - 654年)は、新羅の第28代の王(在位:647年 - 654年)である。姓は金、諱は勝曼。『三国史記』新羅本紀に拠れば、父は第26代真平王の同母弟である真安葛文王金国飯、母は朴氏の満天葛文王の娘の月明夫人[1]。また、『旧唐書』では先代の善徳女王の妹と記されている[2]。647年1月に、善徳女王を廃して唐との和親を図ろうとした上大等の毗曇らの内乱の最中に女王が没し、善徳女王派の金庾信(『三国史記』金庾信列伝によると、金庾信は中国黄帝の子・少昊の子孫である[3])らによって勝曼が擁立された。長身で美人だったと言われている。
- ^ 『三国遺事』王暦には、異なる系統を伝えている。「第二十八眞德女王:名勝曼。金氏。父眞平王之弟眞安葛文王。母阿尼夫人朴氏。奴追■■■葛文王之女也。或云月明。非也。」
- ^ a b 『旧唐書』巻211・新羅伝:「(貞観)二十一年(647年)善德卒、贈光禄大夫。余官封並如故。因立其妹真德為王、加授柱國、封樂浪郡王。」
- ^ 金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
- ^ 腰車城についてはほかに慶尚北道尚州市東部とする説もある。
- ^ 盧亨碩『真徳女王像による。』ハンギョレ)、2006年9月 。
- ^ 武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年8月、78頁。ISBN 978-4634413207。
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